人工知能の判別法(前編)

最近また人工知能の話題が盛り上がっているようである。
今回の盛り上がりの直接的な原因は、おそらく
人工知能「アルファ碁」が人間の囲碁の名人を打ち負かした、というニュースだろう。
検索してもあまりよい資料HPが上がってこないので、
とりあえず読んで面白かった↓を参考HPとして挙げておく。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1603/10/news093.html
ちなみにこの勝負企画は5番勝負で、アルファ碁が4勝1敗で勝利した。
私は囲碁は全く分からないのだが、聞くところによると
ちょっと分かる人が驚くのは「一見ダメに見えて勝ってしまうアルファ碁」だが、
本当に驚くべきは「アルファ碁に思考破綻を誘発させて人間が一勝した4戦目」
だという。

前回人工知能の話題が盛り上がったのは5年前、
IBMの「ワトソン」がクイズ対戦で人間側のチャンピオンを破ったときである。
それ以前にも、「ponanza」が将棋で人間に勝利したり
ディープ・ブルー」がチェスで人間に勝利したりしているが、
そのときにはあまり人工知能の話題にはつながらなかった。
それらは通常のコンピュータにインストールされたソフトに過ぎなかったからである。
その一方で、「ワトソン」は言葉の意味だけでなく概念を理解・把握し、
自律的に調査・学習を行って賢くなっていく人工知能だったとされている。
「アルファ碁」も、既存のデータを学習するだけでなく、
人工知能同士で対戦を行い、既存データの評価、
あるいは全く新しい打ち方の開発まで行っていたらしい。
それゆえにこれらの存在は「人工知能」として認められ、
ソフトでもハードでもなくその融合体、履歴まで含めた固有の存在だとみなされている。
今日ではスマホの操作支援インターフェース、家庭用おしゃべりロボット、それに
自動車の自動運転など、人工知能の適用が期待される場面が広がっていたことから、
前回の「ワトソン」のときと比べても話題の盛り上がりは長く続いているようだ。

SFの分野で今日もっとも有名でよく知られている人工知能は、
間違いなく映画「ターミネーター」に出てくる「スカイネット」である。
いや、SFの分野でもっとも有名で愛されている人工知能を問われたならば、
スター・トレックのアンドロイド「データ少佐」だと言わせてもらおう。
(なに?スターウォーズ?そんなの知らない。)
これは誰が見ても間違いない、疑いようのない人工知能なのだが、
実はこのテレビシリーズにはもう一つ、
出番は多いがあまり知られていない人工知能が出てくる。
エンタープライズ号の船内全体を制御している、通称「コンピュータ」である。
「コンピュータ、アールグレイを一杯。ホットで。」
「コンピュータ、自爆シーケンス起動。承認コード‥‥。」
みたいな感じで、乗員の命令を実行する存在である。
スマホの操作支援インターフェースや自動車の自動運転機能を人工知能とするならば、
この「コンピュータ」もまた人工知能だと言えるだろう。

正直なところ、このような「人工知能」という用語の使われ方には違和感を感じる。
この違和感、SFファンには分かってもらえるだろう。
SFファンにとって「人工知能」とは、もっと高尚で、到達しがたく、
しかし到達してしまえば大変なことになる危険な存在、
それでも人間は魅せられ、到達への挑戦をやめられない、そういう存在なのである。
映画「ターミネーター」の例で説明すれば分かりやすいだろうか。
そこに出てくる殺人ロボット「ターミネーター」は、自律的に考え、論理的に判断し、
さらには敵(人間)の思考を推測して欺いたりもする。
とはいえ、彼らは単に与えられた任務(命令)を遂行しているに過ぎない。
目的地を指定されたらそこまで運転する自動運転自動車と本質的には違わない。
それに対して、その親玉である「スカイネット」は、
当初は航空機の運航・管制を一元的に管理する目的で開発された(ためのネーミング
だったと劇中で言及されていたように記憶している)が、
米軍が目をつけてその開発を管理下に置き、
その後主である米軍(人間)を欺いて核ミサイルを含む兵器群のコントロールを奪い、
人間との戦争を開始した、という人工知能である。

既にお分かりだろう。
スカイネット」と「ターミネーター」の違い、
あるいは「データ少佐」と「コンピュータ」の違い。
それは、自我の有無である。
データ少佐スカイネット、あるいはC-3POは、みなそれぞれの自我を持っている。
それこそが、高尚で、到達しがたく、
しかし到達してしまえば大変なことになる危険な本当の人工知能の証なのである。
そうでないターミネーターや自動運転自動車は、「人工知能」ではなく
「模倣知能」(英語でSimulated Intelligence)とでも呼ばれるべきなのだ。
‥‥あれ、ターミネーターって、自我はないんだっけ?
人間側の戦士たちは「あれらはマシーンだ、心は持っていない」と言うが、それは
「アジアの黄色いサルどもは心なんて持っていない」って言うのと同じことだし…。
2のシュワ型ターミネーターは随分と人間っぽかったし。
ていうかそもそも、西洋の哲学によれば、
自分以外の他者が自我を持っていることを証明できないのではなかったか?

「他の自我の存在を証明できない」というのはどうもナンセンスで、
それはおそらく「自我」をうまく定義できていないことからきているのだろう。
意味を多少限定してうまく定義できれば、
「存在の証明」どころか「自我の有無の判定」だってできるはずだ。
それに関して有名なところでは、「チューリング・テスト」というものがある。
計算機によるコンピュータの原型を考案した20世紀の数学者チューリング
将来造られるであろう人工知能を評価・判定するために提唱したアイデアで、
「人間がモニタ越しに対話を行い、その受け答えだけから
 相手を単なるマシーンだと判定できなかった人工知能が“本物”」
というものである。
だが、この話はどうもおかしい。説明が曖昧すぎる。
「人間」って誰よ?子供と心理学者ならば、心理学者のほうがうまく判定するだろう。
チューリングは緻密な思考をする数学者であり、
イデアを提唱するのであればもっと厳密なことを言うような気がする。
実のところ、チューリング・テストが判定するのは「自我の有無」ではない。
「その人工知能が“本物”かどうか」である。
これは、むしろ“本物の人工知能”の定義を提唱していると捉えるべきではないだろうか。
チューリング・テストに合格しない自動運転自動車の音声ナビゲーションは
“本物でない人工知能”、すなわち模倣知能である、と考えるのである。

このチューリング・テストを発展させ、もっと厳密にすることで、具体的には
“対話”のルールの設定と、対話もしくは質問の内容を厳密に決めてしまうことで、
心理学者でも子供でも同じ相手に対して同じ判定を下せるようになる。
それで正しく対話相手の自我の有無を判定できるとしたら、
その内容こそ私たちが欲しているものである。
果たして、そのような“対話”があり得るのだろうか?
 (後編に続く)