モノが不足して仕方なく物価が上昇し、労組には逆らえない企業は仕方なく従業員の賃金を上昇させ、十分ではないが収入の増えた一般市民は仕方なく高くなったモノを買う。こうして、社会を循環する通貨の総額は増大する。誰も新たな通貨を大量投入していないし、誰も破綻するほどの大損を強いられているわけでもない。が、それと同じ現象が生じる。これが(良い)インフレである。電気回路の電流を増大させるのに新たな電子を投入する必要がないのと同じである。経済学の分野では、この状況を「好景気」とも呼ぶ。実際アメリカでは2021年以降の円キャリートレードなどによる資金流入もあって株式市場が活況を呈しており、その恩恵にあずかった米国企業にとっても米国市民にとっても、それほどの痛みは伴わなかったのかもしれない。2021年以降のアメリカの状況はもっと複雑だったのだろうが、アメリカでのインフレを私なりに切り取ったアウトラインはざっくりこのようなものである。
翻って日本では、無印バブル崩壊後30年以上にわたってこのような現象を経験していない。その原因は、強い従業員保護の法律が労働組合を弱体化させ、賃金上昇の可能性が失われたこと。加えて、日本の優秀な商社や小売企業が海外から安くて高品質のモノを豊富に仕入れてきて、物価上昇の可能性が失われたこと。しかし今、日本は欧米発の物価上昇、そしてホルムズ海峡発のエネルギー価格上昇にさらされている。また、深刻な少子高齢化はサービスの価格を上昇させ続けるだろう。このような好況感なきインフレは、国内企業と国民に大きな負担となってのしかかる。いわゆる「悪いインフレ」である。
いよいよ答え合わせの時間である。MMTのどこが間違っていたのだろうか。いや、そもそもMMTは間違っていたのか。アメリカでも欧州でも日本でも、確かにインフレは生じている。が、慎重なMMTの学者は「インフレは起こらない」とは言っていない。その信者の一部が「インフレは起こらない」と曲解しただけである。むしろ、対立する緊縮財政派のほうが分が悪い。確かに、アメリカでも日本でも、新型コロナ・パンデミック対策として小さくない規模の直接的な財政投入が行われた。が、アメリカのインフレも日本のインフレもそれが主要な原因ではなかった。仮にこれらの財政投入が行われなかったとしても、程度の差こそあれやはり日米のインフレは生じていただろう。緊縮財政主義が間違っていたのであれば、それはMMTが実は正しかったことを示す傍証でもある。
今の日本で生じている物価上昇は、ほぼアメリカが発端となっているもらいインフレである。各国が密接に影響し合う今日の国際経済の状況では、経済規模の大きなアメリカで生じたインフレの影響を日本が免れることは残念ながら不可能である。日本がすべきことは、インフレを過度に恐れるのではなく、うまく乗り切ることではないか。日本の例から学べることは、従業員の賃金上昇を抑えることがインフレ抑止に効果的だということである。しかしこの対策には、社会全体を貧しくするという副作用がある。かつて私が旅してきた途上国は、物価が日本よりもはるかに安かった。しかし国民の生活も概して貧しく、中には若者の多くが外国への出稼ぎを考えなければならない国もあった。彼らが不幸そうだったかと問われるとどう回答すべきか悩むところだが、私はこれからの日本の子供たちをそのような境遇に置きたいとは思えない。あるべきは、日本も先進諸国とともに世界の経済を牽引していくこと、それにより世界中の人間に貢献し、日本人も豊かに繁栄することである。そしてそのためには、眼前のインフレという煉獄を乗り越えて、世界経済を牽引する先進諸国にどこまでもついて行く必要がある。
物価の上昇は一般市民に痛みをもたらす。月々のやりくりを苦しくするばかりでなく、これまでの貯えが相対的に目減りしてしまう。そこで必要なことは、従業員の賃金を物価に合わせて上昇させることである。これにより物価の上昇が定着し、インフレ傾向が確定する。過度のインフレは経済を根底から破綻させてしまうが、いきなりそうなるのではない。インフレ傾向を“うまく乗り切る”のである。日本の社会にできないとは思わない。貯えの相対的な目減りには、適切な投資で対処する。これもまた「うまく乗り切る」の具体的な形である。あるいは、貯えの将来的な価値を見限って積極的な消費スタイルに舵を切るか。実際にできるかどうかはともかく、要はものの見方・考え方の話である。
これらのインフレ乗り切り対策を実現させるために、国政や企業にできること、しなければならないことは多い。が、それらを論じてこの記事を締めくくりたくはない。物価上昇は私たち一人一人に直接的に降りかかってきている現実であり、その対策が求められている。私たち一人一人がそれに対する正しい理解と明確なビジョンを持ち、社会全体が将来ありたい姿を見据えて生活していくべきである。今日の物価上昇の影響を最も強く受けるのは、未来の日本を生きる今の子供たち。そして彼らが自身の境遇について恨んだり感謝する対象は、おそらく、今インフレ対策を迫られている私たちなのだから。