(続き)「ベルヌーイの定理」との格闘

 飛行機の翼の上下に圧力差が生じるのもヘリコプターのローターと同じ原理なのではないか? この問題提起に立ちふさがるのが「ベルヌーイの定理」である。曰く、「流速が速いほどその流体の圧力が低い。」事実、飛行機の翼の上下で気流の速度を測定すると、翼の下側よりも上側のほうが速いという。そのため翼の上側が下側よりも低圧となり、翼は下側から上側に押されてこれが揚力となる。

 このベルヌーイ効果の仕組みが分からなかったので調べたところ、18世紀の半ば(1738年)にベルヌーイによって発表されたオリジナルの定理は単なる流体のエネルギー・エンタルピー保存、それも非圧縮性を想定して流体の圧縮・膨張を考慮しないものであった。熱力学的なエンタルピーをそのまま考えてしまうと頭を抱えることになるが、直観的には分かりやすい。流速の持つ運動エネルギーは熱力学的なものでないため熱エネルギーには変換されず、非圧縮性によって仕事にも変換されないとなると、エンタルピーのpV項に変換されるしかない。さらに体積Vにも制約がつけられると、流速の変化がエネルギーを保存するためには流体の圧力pを変化させるしかない。

 しかし、注目すべきは「非圧縮性」である。水をはじめとする液体は非圧縮性流体として扱われることが多いのに対して、空気は簡単に圧縮できる。つまりこのベルヌーイの定理は空気に対しては適用できないのである。ウィキペディアベルヌーイの定理」の項↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%81%AE%E5%AE%9A%E7%90%86
を見ると、圧縮可能な気体に拡張されたベルヌーイの定理も記されてはいるが、それはオリジナルとはかけ離れた形になっている。これを読み解いても「流速が速いほどその流体の圧力が低い」というシンプルな託宣を得ることはできない。

 ベルヌーイの定理について、現代の航空力学の専門家の意見はどういうものであろうか。今手元にある「飛行機物語」(鈴木真二;ちくま学芸文庫)の中には、「ベルヌーイの定理は,エネルギーが保存されるから成り立つと説明されるが,(中略)むしろ圧力を下げて流体を吸い込むと流れが加速されると考えた方がわかりやすい.」という記述がある。慎重な書き方がされており、ベルヌーイの定理と飛行機の揚力との関係を否定してはいない。が、この書き方は裏を返せば「(非圧縮性が想定されなければ)流れの速い流体では圧力が低いと考えることには無理がある」というように読める。いずれにせよ、書かれているように因果関係を逆転させてしまっては、「ベルヌーイの法則が飛行機に揚力をもたらしている」という定説が成り立たなくなってしまう。

 以上の事実が指し示すところは明白だ。私たちは平成のクイズ番組により科されたくびきから解放され、ベルヌーイの定理から離れて飛行機の揚力を考えるべきなのである。そのための道しるべは既に得られている。ヘリコプターのローターが揚力を受ける仕組みを一般化して飛行機の翼に適用するのである。ヘリコプターのローターは積極的に空気を下方に送り出すことで反動の浮力を得、それに付随する形で圧力差による浮力も得ていた。しかし反動の浮力を得る際に空気抵抗による抗力を受けてしまい、これがエネルギー効率の低下をもたらす。ならばローターの形状を工夫することで抗力を小さくできないか。その結果反動の浮力も低下してしまうが、圧力差の浮力がそれを補ってくれればよいのだ。

 飛行機の翼はローターよりもはるかに面積が大きいので、圧力差を効率的に浮上力へと変換することができる。ローターのように下側の空気を下方に押し出せば、翼の下側に高い圧力を作ることができる。逆に上方の空気を翼の形状に沿わせて下方に引き込めば、翼の上側の圧力を下げることができる。大型旅客機が目的地近くで着陸態勢に入ると、翼の後方に設けられたフラップが降ろされてくる。これにより翼はより効果的に受け止めた空気を下方に押し下げる形となる。着陸態勢に入った飛行機は徐々に減速し、それに合わせて揚力が低下するため、より大きな揚力が得られるように翼を変形させるのである。ヘリコプターのローターや扇風機のファンに近づくものと解釈できる。その代償として空気抵抗による抗力も増大してしまうが、そもそも減速したいのだからむしろウェルカムである。

 では、圧力と流速の関係についてはどうだろう。定性的な推定は可能だろうか。低圧領域と高圧領域にそれぞれ同じ量の流体(気体)が流入/流出する状況を考えると、定性的に低圧領域では流れが速く、高圧領域では流れが遅くなる。これはエネルギー保存ではなく質量保存から得られる帰結であり、非圧縮性とは関係なく空気にも適用できる。翼の上側と下側にそれぞれ低圧領域と高圧領域が形成されるのであれば、これと同じ流れが生じるだろう。「同じ量の気体が流入してくる」という点を満たすかどうかだが、低圧/高圧領域が翼の直上/直下に扁平な形で形成されるのであれば、その表面積が同じになることで満たされる。

 あるいは積極的に翼の上に高速の流れを、下に低速の流れを作りだしても、上述の議論の逆の説明で翼の上側を低圧に、下側を高圧にすることは可能である。これは(エネルギー保存ではなく質量保存に由来する点で)オリジナルとは全く異なるベルヌーイの定理の気体版となり得るが、飛行機の翼にこの仕組みを適用すべきではない。翼の下側に低速の流れを作り出すためにはその場の空気に飛行機の進行方向の運動量を与えなければならず、これは飛行機の天敵である空気抵抗そのものである。それよりは翼の下側の空気に下向きの運動量を与えて圧力差を作り出すほうが効果的であろう。

 いや、そもそもの問題は、仮にベルヌーイの定理によって流速の差が圧力差を作り出すことを保証したとしても、翼の上下に流速の差が生じる仕組みを誰も説明しない点ではないか。「翼の上側が盛り上がっているために流路長が長くなり、その結果として上側の流速が速くなる」といういわゆる「同着の原理」(「原理」という言葉は「仮定」の意味で用いられる)が間違いである、という説明はしばしば目にする。が、その“対案”が示されることはない。大抵は「流速の差が生じるのは観測事実である」という説明で片付けられている。「そのために圧力差が生まれ、翼は浮上力を得るのだ」と。

 だが、私たちが求めているのはそんなことではない。巨鳥が大空を飛ぶことも、紙飛行機が安定して飛ぶことも私たちは知っている。観測事実として受け入れている。求めているのはその根拠なのだ。ベルヌーイ効果がその根拠だというのであれば、最後までそれを徹底してほしいのだ。しかし観測事実を説明することができないのであれば、私たちは早々にベルヌーイの定理を見限るべきだったのだ。

 もっとも、ベルヌーイの定理を見限り、直接的ではないにせよ翼が空気に下向きの運動量を与えることが翼を浮上させる根本的な作用であることを認めたとしても、私たちが飛行機に対して感じる不振や恐怖を振り払うことはできない。なぜならば、直接的に反動の浮力を利用しているロケットやヘリコプターのほうが飛行機よりも不安定で、墜落事故を起こす確率が高いからである。逆に反動の浮力を全く利用しない熱気球や飛行船のほうが飛行に関しては安定している。事故という観点からは安心できないものの、浮上の仕組みが直観的に理解できるという点では一番安心できる空の乗り物だ。昨今ロケットやヘリコプター型ドローンの開発の話ばかりが注目されているが、乗客の“安心”の追求・乗り物としての飛行船を追求する方面があってもよいのではないか、とも思う。

ヘリコプターを飛ばすのは揚力なのか?

 飛行機が空を飛べるのは、飛行機の翼が揚力を生むから。それは誰もが知っている。けれども、この揚力というものをよく理解している人はまずいない。「飛行機が飛ぶことを疑うわけではないが、何百トンもの金属の塊が空を飛ぶことに違和感を感じる」「いつもこの離陸してからしばらくの間が恐ろしくて心の中で祈っている」という人は私だけではないはずだ。平成の初期のころ、テレビのクイズ番組などで、「飛行機が空を飛べるのは『ベルヌーイ効果』が揚力を生み出すから」と説明されていた。しかしこの「ベルヌーイ効果」を説明されてもいまいち納得できず、それゆえに「飛行機を浮かせているのはやはり人には理解しがたい特殊な物理現象のため」だと考えていた。

 実際のところ揚力とはごく簡単なもので、「流れる流体の作用で生じる、流体の流れに直交する方向の力」として定義される。特定の物理現象により特徴づけられるものではなく、状況を整理するための言葉という位置づけである。飛行機の翼を例に考えると、空を飛ぶ飛行機の視点で見ると周囲の空気は後方へ流れていく流体であり、翼はそれと垂直な上方への力を受けて重力を打ち消していることから、翼は確かに揚力を受けていることが分かる。

 ではヘリコプターはどうだろうか。ヘリコプターのメインローターは回転によってその下方へ向かう空気の流れを作り出しており、それが重力に抗う上向きの力を生み出して空を飛ぶ。であるならば、ヘリコプターが上昇する力は周囲の流体と平行な抗力ということになる。けれどもヘリコプターのメインローターに着目すると、それは自身と逆方向に回転する(つまり水平方向に流れる)流体から垂直な上方向の力を受けている。すなわちヘリコプター全体としてみると抗力で浮上しているが、ヘリコプターを浮上させるローターは揚力を受けて重力を打ち消していることになる。扇風機に至ってはさらに困惑させられる。扇風機などどう考えても抗力を利用する装置なのだが、そのファンに着目するとヘリコプターのローター同様に揚力を受けているのだ。

 と言って私たちが困惑する必要はない。上に書いたように揚力とは単なる「状況を整理するための言葉」なのであり、そもそもそうなるように人為的に定義されているだけのことである。私たちはそれを素直に受け入れればよいのだ。‥‥が、それが難しい。何かが引っかかり、素直に受け入れられないのだ。その点をよくよく考えてみて、ようやくその理由に思い当たった。私たちは直観的に、飛行機の翼に働く揚力と扇風機のファンに働く揚力との間に本質的な違いを見出しているのだ。本質的に異なる二つの現象に同じ言葉を与えようとしたため、そこに違和感を感じているのだ。

 私たちにとって最も自然に理解できる力は、作用・反作用の力である。二つの物体が衝突して互いに弾かれたり、あるいは銃を撃った時に受ける反動など、身の回りで考えられる多くの現象がこの分類に含まれる。そこに含まれない力としていわゆる4つの基本的な遠隔相互作用(重力、電磁気力、強い力の源となる量子色力、弱い力)があるが、実際にはこれらの力にも作用と反作用は存在する。したがってこれらと区別するために先に挙げた力を「直接的な作用・反作用の力」と呼ぶことにする。扇風機のファンに働く揚力はこの直接的な作用・反作用の力に分類される。この場合、作用・反作用の主体はファンと空気分子である。

 この直接的な作用・反作用の力にはもう一つの特徴がある。力の強さにその持続時間をかけると作用・反作用の主体の間でやり取りされる運動量となるのである。それが当たり前のようにも思えるが、そうならない力もある。例えば、遠隔相互作用の一つである重力に逆らっておもりをゆっくりと持ち上げる場合。あるいは、圧力差によって対象がゆっくりと浮き上がる場合。飛行機の翼に働く揚力はこれに該当する。先に書いた「飛行機の翼に働く揚力と扇風機のファンに働く揚力との間に本質的な違い」とは、運動量のやり取りがあるかどうかの違いなのである。

 運動量のやり取りを伴う力の働きは私たちにとって直観的に理解しやすく、逆にそうでない力の働きは私たちにとってなじみが薄く直観的な理解を妨げる。事実、ヘリコプターが空を飛べることに対して疑いを感じることはないだろう。だが、ここで逆に疑ってみる。ヘリコプターは本当に気体分子との運動量のやり取りによって浮上しているのだろうか?

 ヘリコプターが浮上する状況を具体的な数値で検証してみる。小型のヘリコプターを想定し、機体・乗員を合わせた総重量を2.0t=2,000kgとする。また、メインローターの1本の長さを2.5mとする。メインローターの回転で描かれる円の直径は5.0mとなり、浮上時はこの内側に下向き一様風速の風が生じるものとする。メインローターが回転していないときにはこの領域が無風状態であることを考えると、この下向きの風が持つ運動量を作り出す上向きの力をメインローターが受けていることになる。メインローターの回転円の面積をS、その中に生じる下向きの風速をv、空気の比重をmとすると、時間tの間に生じる下向きの風の持つ運動量PはP=mSvt×v=mStv^2と表せる。これを時間tで割ったP/tが、メインローターすなわちヘリコプターが上向きに受ける力の大きさとなる。ここで地上の空気の比重はおよそ1.3kg/m^3、メインローターの回転円の面積はおよそ20m^2で、これらを代入するとP=26v^2、その単位は[kgm/s^2]=[N]で力の単位となる。

 一方、総重量2,000kgのヘリコプターを重力に抗って浮上させるためには最低2,000kg×9.8m/s^2=19,600Nの上向きの力が必要であり、先ほどの下向きの風から受ける力でこれを賄うために必要な風速は27.4m/sと計算される。メインローターの下には機体が邪魔をしていることを考えると、実際に必要な風速はこれより少し大きく30m/s弱となるだろう。これは台風の最大風速に匹敵する風速で、発電用の風車も発電を停止するほどの強風である。とても遭難者の救助などやってられるものではない。水面上に浮上するヘリコプターの映像から察するに、その下に生じている風の風速はせいぜい20m/sというところではないか。だとすると、浮上させられる重量は1.0t程度となり、上記設定の半分となる。風速の正確な数値が分からないとはいえ、ヘリコプターに作用する揚力についてもそのすべてが運動量のやり取りを伴う力ではなく、上下の圧力差による力も一定量含まれていると考えるほうが合理的であろう。

 メインローターが回転すると、扇風機のファンと同じようにしてその軌道上にある気体分子を下方に飛ばす。するとその下方では気体分子密度が増加し、圧力が上昇する。逆にその上方では気体分子密度が低下し、圧力が低下する。そう考えればこの結果も特に不思議なものではない。仮に下向きの風の存在が圧力に影響を及ぼすとしても、ローターの上と下では同じ風が生じており条件は同じである。圧力差が生じるという結論には影響しない。この結論は、私にさらなる疑問を抱かせる。実は飛行機の翼に働く揚力もこれと同じで、上下の圧力差による力だけでなく運動量のやり取りを伴う力も一定量含んでいるのではないか?

 打ち上げられた直後のロケットは100%運動量のやり取りを伴う力で浮上している。逆に熱気球や飛行船は100%圧力差による浮上力で浮上している。だがこれらは「揚力」で浮上しているのではない。ヘリコプターや飛行機の浮上原理と性質が異なっていて当然である。逆に考えると、同じ「揚力」で浮上するヘリコプターと飛行機は同じ浮上原理を共有しているほうが自然なのではないか。さらに考えを発展させるならば、飛行機の翼の上下に圧力差が生じるのもヘリコプターのローターと同じ原理なのではないか? (続く)

富に関する考察(後編) ;バブル経済の正体

 経済学の理論的な観点からこんにち最も興味深いテーマの一つとして、ビットコインに代表される暗号通貨が挙げられるだろう。その技術的な側面もさることながら、ビットコインの運用開始が2009年でそれ以前に存在していなかった富が現在(2021年1月)では数兆円の規模に成長しているところが人の関心を引く。実現された錬金術、もっと分かりやすく言えば魔法だ。だが、一見巨額に見える“数兆円”も国家やグローバル大企業が扱う金額の規模から見ると大した額ではない。なんなら日本国はその数倍の額の国債を毎年発行することで実質的に新たな通貨を作り出しているとみることもできる。それなのにビットコインがもたらすような富や豊かさを日本人が実感として享受できないのはなぜなのだろうか。

 ビットコインは本来、ネット上や国際的な少額決済、すなわち金銭のやり取りに用いるのに便利な通貨として“発明”されたものだという。ただし投機的な価値という側面も見据えられていたようで、現在ではそちら側ばかりが注目されている感がある。ここで、「通貨」という言葉は意味的にあいまいなものであるという。政府が統計データを調査するために定められた通貨とされるものが具体的に列挙されており、それらだけで意味的な再定義を行おうとするとうまくつじつまが合わせられないのだという。

 政府の定める通貨として第一に挙げられるのは、日本円としての価値を与えられた硬貨と紙幣である。そして次に来るのが銀行の預貯金。これは紙幣とはまた別の通貨とされている。すなわち、他者とやり取りできる金銭だけでなく、蓄積できる財産もまた通貨であるとされる。けれども不動産やビットコインは通貨としては扱われない。これはおそらく、価値が時間的に大きく変化しやすいためだろう。「統計データを調査する」という目的からすると、それらは扱いづらく不適格なのだ。日本ではこうされるべきなのかもしれない。けれども前回書いたように中国では普通の人々でも不動産で資産を形成・運用しており、不動産を正しくカウントしないと実態が把握できなくなるだろう。

 富に関する人々の大きな欲求の一つに「資産の保有」がある。ここでいう「資産」とは通貨とは関係がなく、直接的な実用を想定しないけれどもできるかぎり多く保有したい、と人々が考えるものである。適切な運用がなされるかどうかも関係ない。中国人が多く保有しているという2軒目以降の不動産にしても、それを賃貸しするわけではなく、また売却しない限りそこから資金をねん出することもできないのだから。将来的な値上がりを期待しているのかもしれないが、それも含めて“保有”が彼らにとっての直接的な欲求となっている。ちなみに日本では、不動産を資産として保有したいという欲求は生じにくい。土地の方はともかく、建物の価値が経年劣化(低下)してしまうからである。ならば土地だけ持とうとすると、日本の法律では固定資産税が高くついてしまう。「土地は貴重だから遊ばせないで活用してね」という法律の狙いが奏功し、日本では不動産は資産として保有するものとはされずに活用されている。

 資産の保有が人々の願いであるならば、保有資産となる対象を多く作り出せばよいのではないか。しかし日本円に関しては大量に発行するとインフレを起こすことを恐れてか、国債発行には否定的な意見が付きまとう。いわゆる通貨には本来法人や自治体の活動資金としての役割があるのであり、預貯金の過剰な増大はその役割に差し障る。要するに経済や社会活動を低迷させてしまうのである。あるいはその目的に最も適っているのがビットコインをはじめとする暗号通貨なのかもしれないが、ビットコインにも本来の“通貨”として期待されている役割があり、投機対象とするのに反対する意見が出てくるのだろう。一方、現状中国で不動産が保有資産としての機能を果たしているとしたら、中国における不動産の建設は実は人々に資産保有の願いをかなえさせる夢の事業であることになる。現在中国では過剰なまでの集合住宅が建設されているが、そうした観点から見ると日本でも報道される中国各地の「鬼城」(ゴーストタウン)の見え方が大きく変わってくる。

 もう一つ、人々が保有する資産としてうってつけの対象がある。株式会社の株式だ。資本主義陣営のリーダー的地位を担ってきたアメリカでは、実際国民の多くが株式の形で資産を形成しているという。こちらは通貨と違って人々が貯めこんでも何の不具合もなく、配当や株主優待があるので意義のある投資になるという側面もある。資金が必要となったときの換金しやすさという点でも、株式は保有資産として適していると言える。ただし難点もある。価値が安定しない点である。わずか数か月で価値が2倍に高騰したり半減したりすることもある。それも、株主からしたら全く理不尽でわけのわからない理由によって。これでは老後の貯蓄をすべて株式に回そうと考える人が出てくる方がおかしい。個人的にも、株式の形で資産を保有・貯蓄したいとは思えない。

 人々に貯蓄される財産としてふさわしい性質の一つに、価値の増加がある。詳しく見るとそこには二つの意味があり、一つは単位当たりの価値の増加、もう一つは単位換算での総量の増加である。中国の不動産は今のところこの二つともを満たしており、その点からも財産としてふさわしい。ビットコインもその点を重視して設計されており、一枚当たりの価値が下落しない程度の総量の増加がシステム維持のための労力の見返りとして仕組まれているという。システム維持のための奉仕活動が消費されない財産を生み出し、かつそれを報酬として受け取れる。こんにちこれほどの働き甲斐を得られる職業が他にどれくらいあるだろうか。料理にせよ耐久消費財の製造/販売にせよ、働いて生み出された価値はすぐに消費され、この世界から消えていく。こんな社会がいかにして富の総量を増やしてゆけるのだろうか。

 考えてみれば、株式会社と株式のシステムはこれに近い形態となっている。株式会社の社員と経営者は会社を維持するために働き、その見返りとして給料を得ている。その働きによって直接的に生み出される商品・サービスはすぐに消費されてしまうとしても、その結果として生じた株価の上昇分は富の増加として社会に蓄積される‥‥のだといいのだけれど。今一つ工夫が足りない感がある。最大の問題点は、社員の働きと株価がほとんど連動していない点だろう。株式を買う側にはギャンブルの素養が求められる。

 結局財産として価値を維持もしくは増大させてゆくものは、その国民がそうなるはずだと信じたものだけなのだ。中国人(特に華僑)は伝統的に金(gold)を信じ、しかし今の中国人はそれと同じくらいに不動産の価値を信じ、アメリカ人は自国の会社の株式を信じている。しかして日本人は、今も昔も日本円だけを信じている。貯蓄は銀行の預金のみ。ゆえに、庶民は高級品の消費を楽しめず、若者は起業できず、会社は設備投資ができない。ひたすら節約し、安定した職場で無難に働き、海外移転と人員整理を繰り返し、日本円の貯蓄に励む。

 改めて考えると「バブル経済」とは、無節操な浪費と狂乱の社会状況を指すのではなく、国民が通貨以外の財産の価値を信じている社会状況なのではないだろうか。もし今際限のないインフレが始まったとしたら、私は貯蓄をはたいてぜいたく品を消費しまくるだろう。もはや明日の銀行預金の価値が信じられないのだから。あるいは銀行預金以上に信じられるものがあるのなら、いちいち貯金などしない。逆に安易に融資を受けて何かの事業を始めるかもしれない。個人には難しくても、企業ならばそのように考えるだろう。信じる価値を増やすため、資金を投入して活動を活発にする。そのためには優秀な人材が必要となるし、彼らのモチベーションも必要となる。経済が回り、従業員を含めた国民全体の所得が増大する。過剰な消費による外貨不足の心配もない。なぜならここは「ものつくり大国」なのだから。これが、バブル経済の正体なのではないだろうか。

 人々は働き甲斐と消費の喜びを見出し、そこから生み出される消費財や知的財産が席巻する。これこそ日本人の求めてやまない社会のスタイルではないか。バブル経済よ再び! そしてフォーエバー! 一億総活躍社会はバブル経済の再来によって実現されるのだ。

富に関する考察(前編) ;中国人の豊かさの謎

 中国人の豊かさは大きな謎の一つである。つい30年前まで中国人は低賃金の代名詞であったのに、10年前には中国人の爆買いなくして日本の経済は成り立たないとまで言われ、今では中国人の方が日本人より豊かなイメージさえ日本社会に広まっている始末。実際のところ平均的な中国人の所得≒国民一人当たりのGDPは日本のそれの3割程度でしかなく、海外で爆買いする中国人は中国では少数の高所得者だとされている。が、実感として海外で見かける中国人旅行者の数は日本人旅行者よりもはるかに多く、また雰囲気も庶民的でごく少数の富裕層ばかりには見えない。明らかに多数の中国人が信じられない速さで豊かになっている。そして最近、その謎に迫るいくつかの記事を読んだ。

 私は以前からこの謎を不思議に思っていた。そして自分なりに得ていた考えは、中国政府がうまく人民元を刷って国富を増やしているのだろう、というもの。これを下手にやると激しいインフレを起こしてしまいかえって国富を損なうことになってしまうのだが、今の中国は貿易黒字と外貨に満ち溢れており、それが担保される限り人民元をいくら刷ってもインフレには至らない。実のところこのように考えている日本人が結構多いのではないだろうか。

 しかしこのアイデアには腑に落ちない点がある。まず、これは経済に携わる者の多くが思いつくアイデアであるにもかかわらず、実際に成功した国の話を聞いたことがない。日本などは“インフレ目標”が未達なありさまである。それを中国共産党政府が果たしてうまくやれるのか。確かに中国政府は強力だが、かの国の昨今の外交を見ていると、そのように洗練された軽妙な手腕を持っているようには思えない。

 そしてもう一つ決定的なのは、中国政府には自国民を豊かにしたいという動機がないどころか、むしろ自国民を貧しくとどめておきたいと考えている点である。放っておけば上昇するであろう人民元のレートを強制的に米ドルに連動させている(管理変動相場制)のは、国民の所得を抑えて“安い労働力”を保持し続けたいからである。となると中国政府が人民元を大量に刷ったとしてもそれを国民に分配するとは考えられないし、もし仮にそうしたならば何らかの形で私たちがその話を耳にしているはずだ。けれどもそのような気前の良い中国政府の話を私は聞いたことがない。

そして冒頭に書いた「その謎に迫るいくつかの記事」の一つが↓。
https://diamond.jp/articles/-/260205
この謎の答えとして上記の記事では
> 中国人にとっての不動産はそうではない。
> 自分の住居や財産であるというだけでなく、「投資の対象」であり、
> 自分の財産をさらに大きく増やしてくれる財テクの道具、さらに、
> 人生のステップアップに欠かせない「踏み台」ともいえるほど特別な存在で、
> 日本人とは認識が異なるのだ。
>  だから、多くの中国人は不動産購入に目の色を変えて夢中になるし、
> 自分が住む住居を購入しても、それで終わりではなく、2軒目、3軒目と
> 別の不動産も購入しようとする。
と述べている。そして、この10年で価値が少なくとも5倍になっているという不動産(の所有者)の例を挙げている。この話が多くの中国人に当てはまる事実であるとすれば、中国人が急激に豊かになった謎をうまく説明する答えとなる。

 そしてこの記事では次のように続く。
> 前述の調査によると、都市部住民が1軒を保有する割合は58.4%、
> 2軒を保有する割合は31%、3軒を保有する割合は10.5%で、
> 1世帯平均で1.5軒を保有していることがわかった。
だとすると、中国人の都市部住民の4割以上、いや、投資用物件を売却して利益を確定させた“1軒保有者”も合わせればそれよりも高い比率の中国人が急激に豊かになったことになり、海外旅行先で見かける普通の中国人が爆買いを行うほど豊かである理由がうまく説明される。

 これって、要するにバブル経済そのものではないか。「中国のバブル経済はもうすぐ破たんする」という説は最近見なくなったが、実態は「中国では今なおバブル経済が順調に継続している」だったということなのか。納得する半面、腑に落ちない点もある。私は2016年に遼寧省省都瀋陽を訪れ、その郊外に際限なく作られてゆく大規模な集合住宅群を見てきた。そして「中国の家賃相場は物価水準を考慮してもかなり安いだろう」と推測した。未利用の平地が豊富にある中国で大量の集合住宅群を作り続けていては、住宅不動産の価値は低下するのではないだろうか。

 さらに、
> 2020年5月に中国人民銀行が発表した都市部住民世帯を対象とした調査によると、
> 都市部住民世帯の住宅保有率は96%にも上っている。
という記述もある。それが本当なら、都市部でも賃貸住宅に住む世帯はわずか4%ということになる。逆側の視点に立つと、中国人の都市部住民の4割以上が持つ二つ目以降の不動産はほとんどが賃貸しされていない、ということだ。いうまでもなく日本の都市部住民の多くは賃貸住宅に住み、毎月家賃を支払っている。日本で二軒目以降の不動産を持つのは家賃収入を期待する投資行為である。しかし中国ではその家賃収入が期待できず、売却益(いわゆるキャピタルゲイン)を期待しての“投機”行為となる。危ういことこの上ない。とはいえ、この中国人の“持ち家信仰”(中国では「不動産が買えないと男性は結婚できない」そうだ)こそが土地バブル経済を安定的に継続させている主要因だとも考えられ、投資家に良い環境を提供しているのかもしれない。

 上の記事の著者による別の記事↓では、
https://president.jp/articles/-/42550
> 上海市なら、中心部以外にある中古物件でも日本円で5000万円以上、
> 新築ならば1億円以上はする。
> 中国の都市部では、戸建ては富裕層以外にはあまりないので、
> これはマンションの価格だ。
所得水準を考慮しない絶対価格で比較しても、これは東京都心のタワマン物件を上回る金額である。ちなみに賃貸物件だと上海市内で
> 家賃5500元(約8万5000円)、2LDK(広さ90平方メートル)
 ;平米数については割り引く必要があるそうで、「2LDK」として見るのが妥当
とのことで、所得水準を考慮して東京より少し高い程度だろうか。

 不動産バブルと言えば日本では前世紀80年代末の超好景気を指すが、実は00年代中頃に「新築ならば1億円以上はする」という上と同じフレーズが韓国ソウルについて言われていた。日本のバブル時代はハリウッド映画(バックトゥザフューチャーなど)にも爪痕を残すほど日本の技術力・経済力は世界に存在感を持っていたし、00年代以降韓国では半導体をはじめとするハイテク産業が大きく発展している。そして今日の中国の製造業は文字通りに世界を席巻している。そう考えると、特にアジアにおいて製造業と不動産バブル経済は考えられている以上に密接な関係にあるのではないだろうか? (後編に続く)

2020年を振り返る(後編)

 2020年総括ふたつめのテーマは、アメリカ大統領選挙について。前回トランプ大統領が勝利した際に書いた記事は↓にある。
https://windmillion.hatenablog.com/entry/18842138
アメリカ大統領選挙(前編) ;2016-11-12)
https://windmillion.hatenablog.com/entry/18843915
アメリカ大統領選挙(後編) ;2016-11-13)

ここでは、
> 正直、トランプ大統領がよいのかどうかは分からない。
> 日本にとって、アメリカにとって、また世界にとって。
と書いていた。そして今の私は「正直、トランプ大統領がよかったのかどうか分からない」と書く。何もしなかった、ということではなく、功と罪がともにあるということだ。功の方は「怖い相手にひるまずその非を明らかにしたこと」である。怖い相手の典型例が中国だ。今日の世界で中国に対して経済戦争を仕掛けてまで中国が行ってきた経済的なずる・軍事力に基づく覇権主義を断罪することが、トランプ大統領以外の誰にできようか。いや、今ならバイデン次期大統領にもできるかもしれない。しかしそれはトランプ大統領が先鞭をつけたからである。その他、石油の生産制限が必要な時期に手ごわい相手であるロシアのプーチン大統領と交渉を行って共同で産油制限を実現させたという。日本以外の世界では、リーダーが上品さを装わない国が多くある。そのような国を世界のルールに組み込むためには理想を掲げるだけではダメなのだ。

 一方のトランプ大統領の罪の側面は、国際協調主義に背を向けてアメリカ人に孤立主義の味を思い出させたことである。そもそもこれはトランプ大統領のスローガンである「アメリカ・ファースト」と表裏一体にして不可分の側面だ。もっといろいろな影響が出てきても不思議ではないところだが、実際には日本の駐留米軍の負担増額や駐韓米軍の撤退などは実現せず、さらには大統領が明言したWHO脱退も実現されていない。この時期で大統領の交代が生じたのは、アメリカの孤立主義を深めないという点で希望の持てる事態であり、またアメリカの影響力と自由主義のルールを排除して覇権を握りたいと考える勢力にとって好ましくない事態となる。

 前回の大統領選挙に際して私は、その選挙の結果はトランプ候補の勝利というよりもマスコミの敗北であり、行き過ぎたポリコレに対してアメリカ国民がノーを突きつけたものだと書いた。そして、
> ヨーロッパやアメリカが原理主義を否定し、行き過ぎた政治的正しさを拒否し、
> 無制限の移民の流入やマイノリティに特権を与えることが社会的に正しいかどうか
> を真の言論の自由の下に議論し、より望ましい自由と民主主義を実践する。
> そのあかつきには、自信に満ちた態度のアメリカ大統領が自らの価値を振りかざし、
> その旗を日本の全体主義に突き刺してこの閉塞感に風穴を開けてほしい。
という期待を表明した。然してその結果は、4年前とあまり変わっていない。ヨーロッパでは相変わらず環境問題をはじめとするポリコレ旋風が吹き荒れており、アメリカではBLM運動が記憶に新しい。そして日本では、全体主義同調圧力が新型コロナウィルスの流行によりさらに強まってしまっている。これらの社会的風潮の根底には、各種の原理主義と同じ不寛容の精神が息づいている。

 私は今回の大統領選挙でもトランプ大統領が圧勝するだろうと予想していた。理由は対抗馬のバイデン候補に魅力が乏しいこと、そして年の前半に拡大・過激化したBLM運動がトランプ大統領にとって追い風になると考えたためである。しかし結果はトランプ大統領への追い風が及ばず、反トランプ票がトランプ支持者の票を上回ったというものだった。もちろん先に書いたように新型コロナウィルスの流行拡大がアメリカでも現職大統領にとって強い逆風となった要素はあるとしても、これほどBLM運動が影響力を持たなかったというのは心底意外だった。思えば、大統領選におけるトランプ支持者もまた(不法移民などへの)不寛容の精神をあらわにしており、反ポリコレの想いを持つ浮動票の求心力となれなかったのかもしれない。今後も先進諸国ではポリコレという名の不寛容主義が幅を利かせ、世論は画一化ないし二極化の状態をとることになるだろう。

 バイデン次期大統領に関しては、今回の選挙における彼の役割は“反トランプ候補”なのであり、トランプ大統領に勝利した時点で彼の役割は完了してしまった、彼の支持者の期待もしぼんでしまった、というところにつまらなさがあると思う。高齢であることから、任期中に次期副大統領へバトンを渡すことが彼の次の役割だという主張まである。逆に期待されていない分大きなことをなす余地もあり、4年後には「つまらない」という私の予想を裏切る総括を書かせてほしいと思う。

 いずれにせよ2021年は新型コロナウィルスに対する人類の反撃の年となるはずで、特にその急先鋒は現在最も大きく負けているアメリカと、オリンピックを控えている日本となるだろう。疫病とともに、社会を閉塞させている同調圧力と不寛容の精神が世界から退散してくれることを願い、2020年を納める。

2020年を振り返る(前編)

 2020年を10年紀のは始まりとするか終わりとするか。厳密には2010年代の最終年となるが、全世界の多くの人々が新たな10年期の始まりと捉えているだろう。2020年はそれくらい激変の年だった。個人的に私生活も激変したが、それとは別次元で新型コロナウィルスが文字通り世界中の人々の意識と生活を変えてしまった。もう一つ2020年を特徴づける出来事は、アメリカの大統領選挙で現職のトランプ大統領が敗北したことだろう。我が国日本でも在任最長記録を達成した安倍首相が交代しているが、すでに日本人ですらそのことを忘れかけている。この事実をもって安部元首相を凡庸とするか(個人的には憲法改正を成し遂げてくれると期待してました)賢相とするか(実際のところスムーズな政権交代というのは最大限に評価されるべき偉業だと思います)は後世の判断に任せるべきだとしても、日米で政権交代が起きたのはやはり新型コロナウィルスの余波の一つだと捉えるべきだ。ねずみ年のジンクスのせいではありません。私はちょうど新型コロナウィルスとトランプ大統領の始まりの時期にそれぞれの記事を書いているので、今回はそれらへの総括/フォローを2回に分けて行いたいと思う。

 まずは新型コロナウィルスについて。↓の記事を皮切りにいくつか記事を書いた。
https://windmillion.hatenablog.com/entry/2020/04/19/015655
(新型コロナウィルス感染症の謎 ;2020-04-19)
4月中旬、イタリア北部やニューヨークで爆発的感染が生じたのち東京でも第一波の真っただ中にある時期に書いている。その後の予測に関しては
> 今の状況がこれから先どれくらい続くのか。
> 「収束」については専門家や各国当局の予想よりも早く来るのではないかと思う。
> (中略)けれども「終息」については、早期達成の見込みはごく小さいだろう。
としており、この点に関しては実際その通りとなった。

 この記事の主題は「指数関数的な感染拡大が全人口の1%程度で終わる理由が謎」というものであり、この点については今なお謎のままである。アメリカ合衆国ではすでに累計1,900万人(12/29)、全人口のおよそ6%が感染している計算だがまだ感染拡大が続いている。けれども指数関数的な増加ではない。グラフを見ると、今冬の“波”に関しても指数関数的な増加は11月初旬までである。日本、もしくは東京についても、感染は今なお拡大しているとはいえ指数関数的ではない。自然な増加であれば指数関数的な挙動になるはずで、逆にロックダウンやGOTO中止のような対策が奏功すれば感染者数が減少していかなければならない。その中間的な挙動は不安定なはずで、それが長期間続くためには何らかの要素が必要となる。

 と言ってこれは疫学的に特に珍しいことではなく、普通の風邪やインフルエンザで見られる挙動でもある。風邪やインフルエンザの場合、不安定な拡大傾向を長引かせる要因は「人間の免疫力」である。無理をして頑張ったり布団をかけずに寝たりすると風邪をひくのは、それにより免疫力が低下するためである。冬になり気温が下がると風邪やインフルエンザが流行るのも同じ理由である。そして今、新型コロナウィルスの感染症も冬を迎えた多くの国で指数関数的でない不安定な増加傾向を見せている。そこから推測されることはただ一つ、新型コロナウィルスがすでに人間の免疫力によって抑え込まれるようになっているというものである。そもそも健常な若者の多くが感染しても無症状となっている時点で自然免疫(ワクチンを打たなくても病原体を排斥してくれる)の有効性が示唆されている。

 ただし感染症状が軽ければ軽いほど感染予防が困難となり、喜んでばかりもいられない。症状の出ない感染者は隔離等の自主的対策をとることがなく、周囲に感染を広めてしまうためである。昨今英国などで感染力の高い変異種が見つかったと騒がれているが、日本で夏以降に広まっている重症化率の低い新型コロナウィルスも立派な“感染力の高い変異種”と呼べる。

 もう一つの傾向として、春先の第一波では高齢者同士による咳・くしゃみや手等の接触を介した感染ルートが注目されていたのに対して、夏以降は感染現場として若者による会食・会合が相対的に大きな割合を示すようになった。その理由は容易に推測できる。春先の報道や専門家の警鐘によって人前で咳やくしゃみをすることが禁忌となり、また何かにつけて手洗いや殺菌消毒を行うようになったためである。おそらくはこれによって初期に流行した株が絶滅したのだろう。生き残ったのは人間の会話という行為で感染できる感染力の高い株のみだった。いや、その中でも免疫力の高い若者の体内では増殖・発症を抑えられる弱毒の性質を備えたウィルスのみが細々と感染をつなげて絶滅を免れた。その結果相対的に人間の免疫力の低下する冬季に感染速度の緩やかな(不安定な)流行が生じた、というのがこの新型コロナウィルスの進化のプロセスであると考えられる。

 以上を踏まえて、来年以降の動向を予測しよう。会話だけで感染可能な弱毒性のウィルスを根絶することははっきり言って不可能である。できることはワクチンによる獲得免疫の普及しかない。我が国を含む先進国では、ワクチン接種体制の確立および法整備に必要な時間を稼ぐために、会食やイベントの自粛要請(もしくは禁止)が今後も継続されるだろう。

 もう一つ、来年の大きなイベントとしてオリンピックがある。果たして東京オリンピックⅡは開催されるのか。難しいところではあるが、私は開催されると予想する。理由は、ワクチン接種済みの関係者および観客のみによる開催として、ワクチン接種が本感染症に対して有効であることを宣伝し、ワクチン接種を促す絶好の機会であることだ。我が国を含む先進国の状況を見るに、ワクチン接種体制の確立および法整備に要する時間は半年以内と見積もられる。途上国の選手・関係者に接種の援助を行う時間を含めても間に合いそうだ。となれば、IOCとWHOの利害が一致してオリンピックの開催を促してくるだろう。

 この予想が外れる要素としては、ワクチンの有効性が期待されたほど高くない可能性が指摘できる。アメリカで開発されたワクチンでも、大規模治験で接種後に感染した人数がゼロでなかったという。日本のマスコミがこの事実を持ち出してきて国民に恐怖をあおり、世論を扇動する可能性がある。あるいはその他の国で開発されたワクチンで接種者への感染が頻発するようなことがあれば、オリンピックは逆にワクチン接種の無効性を宣伝する機会となりかねず、そうなるとWHOが開催の阻止を働きかけてくるだろう。ワクチンの効かない変異種が発生する可能性もあり、正直なところ上記予想への確信はない。

 では、来年のうちに我が国の中で新型コロナウィルスへの“戦時体制”は終了させられるだろうか。こちらについては予測が比較的容易だ。上記の通り戦略は明確であり、その達成の道筋もすでにつけられている。ワクチン接種が法的に義務化されることはなく、おそらく接種を拒む人も相当数あるだろうと予想される。けれどもそこは問題でない。すべての国民が接種可能な状態となった時点で国の責務は果たされたこととなり、あとは国民の責任と自由の問題となるのである。加えて、上述のように我が国では新型コロナウィルスが進化して無毒化しており、国民保健の観点からも接種拒否が重大な問題となるおそれがなくなっている。4月以降の私たちの努力は、感染症を根絶させることこそできなかったものの、ウィルスを弱毒化させられたという点において無駄ではなかったのだ。

 来年のオリンピック終了後、国民の接種率も上昇してゆき、日々の新規感染者数が激減してニュースも次第に追わなくなるだろう。国は気兼ねなく経済活性化の施策を打ち出し、海外旅行も接種者に対して解禁されるだろう。マスクの習慣は残るかもしれないが、来年の年の瀬には忘年会と帰省ラッシュが復活しているものと、明るい未来を予想する。

マイノリティを擁護する理由

 先日、朝の民放情報番組でLGBTの権利拡大に反対するどこかの議員の話題が取り上げられていた。当然のことながらその議員をバッシングする傾向の強い姿勢で扱われており、その議員に対して辞職を求める強迫も多く届けられている、との説明もあった。特に政治に関する言論の自由の観点からこのような脅迫行為は明らかに問題なのだが、そのような指摘等はなされなかった。いや、件の議員に対して脅迫のなされた事実が報道されたこと自体、報道現場にできる精いっぱいの批判であったのだ、と私は好意的に解釈したい。

 LGBTの権利拡大に関する意見の展開は差し控えるが、私はLGBT等の社会的マイノリティが社会から差蔑されたり攻撃されたりされるべきでないと考えるし、同様に社会的マイノリティが他者を攻撃すべきでないとも考えている。社会的マイノリティであれば反社会的行動・犯罪行為すらも許される、などと考える文明人はいないように思われるが、実際のところはそうでない人間が少なからず存在している。アメリカで展開されていたBLM(黒人の命が重要)運動の先鋭化された実施者がその典型例である。

 平和的なデモ活動に飽き足らず、商店を襲って略奪したり警察署を襲撃したりといった数々の反社会的行動を、当のアメリカ人たちはどのように見ているのだろう。黒人は社会のマイノリティだから仕方がない、無実なのに警官に殺された黒人がいるのだから仕方がない、と考えているアメリカ人がどれくらいいるのだろう。やはりマイノリティであるアメリカ在住の日系人が同様の反社会的運動を展開したとして、それを支持する日系人・日本人が果たしてどれくらい出てくるのだろう。そう考えると、社会的マイノリティを擁護する立場の民主党(米)の支持率にとってこのBLM運動はマイナスに作用し、今度のアメリカ大統領選挙ではその対立候補となる現職のトランプ大統領にとってかなりの追い風が吹くことだろう。

 日本人の多くは、声にこそ出さないまでも、性的な嗜好対象ないし恋愛対象が自身の性と対応していない個人の総称であるLGBTのことを性的異常者だと考えている。そしてLGBTはそのことに我慢がならず、その不満を他者への攻撃性に転嫁する者もいる。果たしてLGBTは異常者だと言えるのだろうか。異常者とは正常でない者のことであり、病人とは異なる概念である。もちろん犯罪者とも異なる。地球に生まれた生命における性の仕組みは異性との生殖を目的としており、その観点からすればLGBTは正常だとは言えない。LGBTはマイノリティであるがゆえに異常なのではなく、性の仕組みという生物学的な観点から異常なのである。この点は受け入れなければならない。この点を受け入れられないと、主張が先鋭化して自身を含む多くの人間を不幸に陥れる反社会活動に向かって道を踏み外すことになるだろう。

 ここで話を少し一般化するための問題提起をしたい。マイノリティ(少数者)であることが異常とみなされる事由となり得るだろうか。たとえば、生物の中には雌雄の個体数が著しく偏っているものがある。クマノミなどの魚類の一部ではオスの個体数と比べてメスの個体数が著しく少ない。この場合、個体数の少ないオスは少数者であるがゆえに異常だと言えるのだろうか。前述の観点からは、クマノミという種を存続・繁栄させるための性の仕組みの一環としての機能を担う少数のメスは正常であり、異常者とは言えない。

 クマノミの場合、オスからメスへの後天的な性転換を行う個体がある。群れの中で一匹のメスが死ぬと、残されたオスの中の一匹が雌に性転換するという。この場合、逆に群れの中で一匹ないし少数であるべきメスの数が多いと“群れとして異常”ということになり、その中のメスは多数派であるにもかかわらず異常者となる。人間社会にあっても、どういう観点を採用するかによっては多数派であるにもかかわらず異常者となることもあると認識すべきであろう。

 ところで、日本でもアメリカでもマスコミはマイノリティを擁護する立場をとる。その一番の理由は「ポリコレ的にはマイノリティ擁護が正義だから」であるが、それだけで説明がつくのだろうか。行き過ぎたマイノリティの反社会的行為を擁護することもポリコレ的な正義なのだろうか。ポリティカル・コレクトネス、略してポリコレ。日本語に直訳すれば、「政治的な正しさ」である。簡単には反論できず、それを振りかざす者は大きな快さを得ることができる。その性質に照らし合わせれば、反社会的行為の擁護をポリコレとするのには少々無理がある。にもかかわらず行き過ぎたマイノリティの反社会的行為を擁護する者は、いかなる動機を持っているのだろうか。

 孫氏の兵法に曰く、いくさに勝つための効果的な工作として「敵の分断」がある。直接的には敵の軍隊を小集団に分けて各個撃破を目指す戦略なのだろうが、国家の興廃を考える上では仮想敵国の社会を分断することだと解釈することもできる。そしてその場合、国内社会に不満を抱いているマイノリティを扇動するのが最も容易で効果的なのである。アメリカや日本は今、国内社会の分断を目論む工作にさらされているか、もしくはそれと同等の効果を持つ自発的な活動にさらされている。私に言える一つだけ確かなことは、いずれの社会にあってもその分断の危機に陥れかねない活動を悪事だと糾弾する行為は正しい、ということだ。それは社会を健全に維持するものであり、自らの社会を不健全な状態に陥れたいと願う行為は正しくない、ということでもある。自殺(切腹)上等といった我が国の悪しき考え方は、先の敗戦とともに歴史の遺物となってほしい。