ベトナム中部旅行記(7/7) ;戦争の傷跡

ベトナム戦争」というと普通はベトナム人アメリカ軍との戦争を指すが、
第2次世界大戦以降ベトナムはそれ以外にも多くの戦争を経験している。
アジアで史上最悪の虐殺をやらかしたクメール・ルージュ
いわゆるポルポト政権を軍事力によって壊滅させたりもしている。
領土的な欲望を我慢できずに単独で突っ走る近代中国が引き起こした(チベット侵略を
含む)数々の侵略戦争とは異なり、ベトナムが関わってきた戦争は
構造も背景もかなり複雑だ。一朝一夕の勉強ではとても理解しきれない。
 
ただ、地理的、歴史的にベトナムが置かれた位置は、朝鮮半島のそれとよく似ている。
物心のついた頃から大国中国の影響下にあり、中国からは属国とみなされながらも
中国の一部だとはみなされない、辺境の蛮族扱い(いわゆる朝貢国)を受けていた。
そんな弱い立場に長くあったからこそ、逆境をうまく乗り切るしたたかさを
身につけてきた、という風に見ることもできる。
第2次世界大戦後は、どちらも北側の国境を共産国家中国と接し、
中ソの支援のもと北側に共産国家が作られ、それに対抗すべく南側には
アメリカの支援する反共産国家が作られて南北に分断された。
ほどなく、どちらの地域も南北の分断国家同士による戦争が行われた。
ベトナムでは北側が勝ち、朝鮮半島では実質的に南側が勝ったといえる。
 
朝鮮半島の南側、すなわち韓国は今でも十分痛い国だが、
今からわずか30年前までは今とさえ比較にならないほど痛い国だった。それが'80年代に
普通の国」への転身を図り、1988年にはソウル・オリンピックを開催している。
同じ頃ベトナムドイモイ政策、実質的な脱共産主義政策を掲げ、
やはり「普通の国」への転身を図っている。
今現在、ベトナムの街を歩いても共産主義国家を思わせるものはあまり多くない。
(軍服的な)制服を着た人を見たのは駅の中と王宮ダイ・ノイの入り口くらい、
むしろ「こんなに少なくていいのか?」とこちらが心配になるほど警官も少ない。
市民の生活は完全に個人経営の商店に頼っており、市内やマーケットに立つ商店は
完全に市場原理の競争にさらされて、商品を少しでも高く多く売ろうと懸命だ。
国内に200か所以上あるというホーチミン博物館、街角で時々見かける掲示板に貼られた
いかにもそれっぽい絵柄のポスター(文章は読めません)が、
ここが共産主義国家であることを静かに主張している。
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フエの旅行代理店で、DMZツアーに参加した。
DMZ」とは「非武装地帯」の意味で、朝鮮半島の38度線のようなものだ。
フエの北方、北緯17度に位置する河を中心線とするDMZを挟んで両軍が前線基地を構築した
…という訳でもなかったらしい。
確かに米軍はこのDMZの少し南側に大規模な空軍基地を作り、そこを拠点にして
飛行機を飛ばしていたらしい。
が、北ベトナム側はそれを無視してラオス側の山岳部を通り抜け、
南側の領内で軍事作戦を敢行していたそうだ。
前述の米空軍基地は早々に放棄され、現在その一帯はコーヒー畑として利用されている。
観光客を呼び込むため、破壊された当時の兵器がいくつか放置されている程度。
DMZそのものにも特に変わったところはなく、ツアーが長く留まったりはしない。
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ツアーのメインは、DMZの北側の海岸線に作られた穴ぐら基地だ。
その話は聞いたことがある。確か「たこつぼ」と呼ばれ、米軍が恐れたものだったはず。
以前読んだ村上龍の小説<五分後の世界>に出てくるような、地下国家をなす
長大なトンネルとそれに付随する地下施設をイメージしていた。
が、見てきたものは狭い移動用のトンネル。地下式塹壕とでも言った方が当たっている。
それより10年以上前、硫黄島に栗林中将が作ったという対米軍上陸作戦用の地下基地も
こういうものではなかっただろうか。北ベトナム軍はそれを学んだのではなかろうか。
トンネルの先端は海岸に通じている。
狭い海岸の先にある内陸は、高さ5mほどの崖の奥にある。天然の要塞だ。
映画<プライベート・ライアン>の冒頭に出てきたノルマンディの海岸とよく似ている。
いくら米軍が自信過剰であっても、こんな場所から上陸を試みたりはしないだろう。
(映画にあったノルマンディ上陸作戦の描写が真実だとしたらなおさらのこと…)
そう、ここは北側の領内。実際に米軍が恐れた奇襲攻撃用のトンネル基地は南側、
南ベトナムの首都サイゴンの近くにあったのだとか。
 

ツアーには、アメリカ人が一人も参加していなかった。
これ以外にもいくつかのツアーに参加したが、やはりいずれにもアメリカ人はいなかった。
やはりアメリカ人は観光でベトナムには来たがらないのだろうか。
これも戦争の傷跡の一つなのだろうか。
ガイドはそんなことには構わず、アメリカ軍の悪口を言っていた。英語で。
ベトナム人の英語は酷い。日本人も人のことを言えないが、多分それより酷い。
「yoghurt」→「ヤオート」、「soldier」→「ソリヤ」、「theory」→「シアリ」等。
話をしたアイルランド人も「実は結構聴きとれていない」と告白した。
ただ、このガイドの説明は(発音は悪いものの)おそろしく流暢で、
まるで大勢の聴衆相手に母国語で扇動演説をしているかのようだった。
原稿やカンペを見るのでもない。ただ言いたいことを聴衆に伝えるためにしゃべっている。
 
後日参加したミーソン遺跡ツアーでも同じような退役軍人風のおじさんがガイドを
務めており、やはり何も見ず扇動演説調の流暢なしゃべりで説明をしていた。
このときのツアー参加者は多く、50人以上はいただろう。迷子を出さないために、
「私達は今から『タイガーチーム』の一員だ。『おまえはタイガーか?』と聞かれたら
 『yes』と答えてくれ。」などとルールを定めていた。
しかしこのルールが使われるまでもなく、広大な遺跡を歩き回ったにもかかわらず
迷子や脱落者は一人も出なかった。ツアー参加者の大半が
フリーダムなマインドの西洋人であることを考えると、これはすごいことである。
この横縞シャツのガイドの統率力は、並大抵ではない。
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DMZツアーでもミーソン遺跡ツアーでも、ガイドたちは
米軍が空爆によってこしらえたクレーターをツアー客に対して見せていた。
また、戦争での負傷者や枯葉剤の影響は今でもベトナムに残っているだろう。
戦争では負けた側はもちろんのこと、勝った側にも傷跡を残す。
けれども今、首都ハノイの周辺では高層ビルが建ち始めており、
過去の戦争の傷跡は、癒える/癒えないに関わらずその影にうずもれていく。
社会も人々も安定していて人件費は安く、今後も経済は成長していくことだろう。
それにより自ら戦争の傷跡を癒し、ベトナムの人懐っこい人たちには
幸福になっていってもらいたいと思う。
「苦労の末独立と統一を勝ち取った」という成功体験と戦争で受けた傷跡。
ベトナムには、その二つを共に見つめ、世界の中で国民の幸せのために
何が必要なのかを世界に対してアピールできるような国になってほしい。