メキシコ旅行記(3/4) ;古代文明

メキシコはまた、
マヤ、アステカをはじめとする中南米古代文明発祥の地としても有名である。
知名度でいうと南米ペルーのインカ帝国も有名だが、
この帝国はその始まりが13世紀と比較的新しく、”古代文明”とは言い難い。
なにより、インカ帝国には文字が存在しなかった。
その一方でマヤ文明では紀元前数百年の時代にすでに大規模な遺跡が建築されており、
また有名なマヤ文字で彼ら自身の歴史・文化を書き残している。
そしてそれらの基盤の上に、高度な数学や天文学の足跡を現代にまで残している。

そのメキシコにおける古代文明の遺物を集めた博物館がメキシコシティにある。
メキシコ国立人類学博物館である。
市の中心に位置する広大なチャプルテペック公園の一角にあり、
1階はメキシコ各地の古代遺跡から出土した遺物を、
2階は現在のメキシコ人が使用している伝統的な工芸品・文化を展示している。
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以前から、漠然とそういう博物館がメキシコにあるだろうとは考えていたが、
今回「世界の博物館・美術館巡り」という私の趣味の一環としてメキシコへ行こう
というように考えたわけではない。
が、この人類学博物館はメトロポリタン美術館故宮博物院に匹敵する
と言っても言い過ぎでないほど見ごたえのあるものだった。

「古代メキシコの遺物」として最も有名なのは、
アステカ王国のシンボルだったとされる「太陽の石」だろう。
博物館の中心部に堂々と展示されている。
人の背丈ほどの大きさがある円盤型の浮彫で、
一般的にはアステカ王国の暦を表しているとされている。
が、説明を読むと実態はそうではないらしい。
アステカ王国にとって重要な神話を表している、らしいのだが、正直よく分からない。

メキシコの古代文明では基本的に金属が存在しなかったようで、
遺物は基本的に石と焼き物である。だからこそ、なのだろうか、
そのどちらもが現代人が見ても素晴らしいと思うほどの技術レベルだった。
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焼き物に関しては、洗練された美しい磁器が作られていたわけではなく、
技術的には釉薬もかけない素焼きのレベルである。
が、四角形やカボチャ型といった作りづらい形状のものが多くあった。
ろくろを使っていないのだろう。しかし、手で造形したとも思えない。
型抜きできる形状でもなく、どうやって作ったのかは分からない。

石に関しては、黒曜石の加工技術が素晴らしい。おそらく世界一だろう。
黒曜石とは天然のガラスのこと。
熱で溶かすことなくガラスを加工して何かを作り出すことを考えてみてほしい。
それがどれだけ大変なことか。
普通なら削りたい部位を細かく砕いて造形するところだが、古代メキシコ人は
それだけでなく研磨によって黒曜石を加工することもしていたようだ。
そしてその集大成がマヤの遺跡で発見されたという「水晶ドクロ」だろう。
残念ながら水晶ドクロの実物は、メキシコにはない。
が、焼き物の造形や石の加工技術を見れば、
彼らが精巧なドクロを加工の難しい水晶で作ったというのも納得できる話である。

ところで、メキシコ人は古代も現代もドクロの意匠が好きなようである。
みやげ物屋には様々なもので作られたドクロの置物が売られている。
私もトルコ石で作られたドクロのブレスレットを購入し、
気に入って旅行中ずっと身に着けていた。;実際は何かを焼き固めて作ったものらしい…
博物館に展示されていたレリーフや石像にも、ドクロのものが多い。
うーん、しかし…、あまりいい趣味だとは言えないな。
人間は本能的に、(人間の)死体や死にかけの病人、それに老人を見たとき
「美しくない」と感じるものである。
「それが魔よけの意味を持つ」と言われればそうなのかもしれないが、
行事などで人の集まる場所に好き好んでドクロの石像を飾りたてる
という感性はどこか歪んでいるように思える。

メキシコの古代文明を有名にしているもう一つの要素、それは人間の生贄である。
彼らは太陽が毎日規則正しく空に昇ってくるかどうかを疑い、
そのためには人間の生きた心臓を供える必要がある、という独特な考えを導き出し、
それを実践するために毎日生贄から生きた心臓を取り出して太陽に供えていたという。
寝ころんだ人物が自分の腹の上に台を掲げている石像、
割と有名なマヤ遺跡の「チャック・モールの像」だが、これはかつて
その生贄から取り出した心臓を太陽に供えるための台として使われていたものだ。
今回メキシコで初めて知ったのは、このチャック・モールの像がいくつもある
ということ。それも、人物の表現などに関していくつものバージョンが存在している。
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ということはこれは、古代メキシコの各地、各時代において
同様の生贄の儀式が継続的に行われていた、ということになる。

今回の旅行中、実際の古代メキシコの遺跡としては、
メキシコシティの北方にある「テオティワカンの遺跡」へ行った。
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広大な盆地の一角に2つのピラミッドがそびえ、
その下には必要以上に幅の広い「死者の道」が長く続いている。その先には、
おどろおどろしい石像による装飾が施された「ケツァル・コアトルの神殿」が建てられた
儀式用の広場が広がっていた。
ピラミッドは巨大で、2つのうち大きいほうは高さ65m、一辺が200m以上あるという。
さすがに表面はコンクリートで補強されていたが、
観光客は急な階段を伝ってその頂上まで登ることができる。
新大陸最大の石造遺跡で、世界的にもエジプトのピラミッドに次ぐ規模であるらしい。

かつてはここにさらに木造の建築物が建ち並んでいたのだろうが、
今は近くに人家もなく、草や灌木がわずかに生えているのみ。
観光客やみやげ物売りたちがいるとはいえ、静寂な雰囲気が広がっている。
かつて、各地から連れてこられた奴隷や捕虜たちがここの神殿に集められ、
”死者の道”を歩かされてピラミッドの頂上に上げられ、
その上の台座で生きたまま心臓をえぐり取られていたのだろうか…。

しかしガイドブックによると、
この遺跡が栄えたのはアステカ王国より1,000年古く5~6世紀のころで、
建造された時期は紀元前まで遡るものらしい。
ここは毎日のように生贄の儀式を行っていたというアステカ文明とは別物で、
アステカの人々はその当時すでに廃墟となっていたこの遺跡のことを気味悪がって
誰も近づかず、不気味な独自の伝説・神話だけをこの遺跡に結びつけたのだという。
そもそも、狂信的で残虐な文明、あるいはそのような指導者を戴く国家・組織には
”独自の偉大な遺物”を残すことができない。それを造るためには
指導者だけでなく労働者の側にまで創造的な精神がなくてはならないからである。
一方、狂信的で残虐な国家・組織の人々にとっての本質は破壊と略奪であり、
”大きな物”を奪い取ることはできるとしても、独自のものは創り出せない。
あるいは奴隷たちに”大きな物”を造らせることはできるとしても、
そうしてできたものは1,000年先にまで残ることができない。
すでに過去となってしまった歴史を変えることはできないが、
せめてテオティワカンの遺跡のかつての住民たちは
合理的で他者との共存・共栄を尊ぶ精神の持ち主であったものと考えたい。