アメリカ大統領選挙(後編)

 (前編からの続き)
日本人からすると、アメリカのマスコミの偏向っぷりは酷く見える。
あちらのマスコミは政治的な中立性を保つ義務はないようで、
会社ぐるみで特定の政党を応援したり特定の候補を非難したりする。
また、外国資本がマスコミの運営会社を買収することもできてしまう。
アメリカの大手新聞会社を買収した中国(資本を通じて共産党政府)が
扱いにくそうなトランプ候補のバッシングを行っている
という穿った見方をしたりもしたが、どうやらそうでもないようだ。

これまでのアメリカ大統領選挙にはいくつかの共通する傾向があり、
その中の一つに「終盤に向けて接戦になる」というものがあるという。
これは簡単な理屈で、アメリカの有権者は負けている側を支持しやすい
ということである。
実際これは日本を含む世界の多くに共通してみられる現象・心理で、
先のイギリスのEU離脱に関する国民投票でもこの現象が作用したと言われる。
今回“自らの願望”としてヒラリー候補の優位を伝え続けたアメリカのマスコミは、
この現象によって逆にトランプ候補を応援してしまっていたことになる。
それが分かっていても、心情的に願望優先の報道をやめられなかったのだろう。
もしその背後で中国が指示しているのであれば、心情的な要素が顧みられることはない。
彼らなら、望ましいとする結果が実現されるのに最も効果的な指示を出すはずである。

とはいえいくらマスコミが“実質的な”応援をしたからといって、
それだけでその候補が勝てるほどアメリカ大統領選挙は甘くはないだろう。
大方の予想を裏切ってトランプ候補が勝ったのにはそれなりの理由があるはずだ。
よく言われるのは、
「高学歴の高所得者がヒラリー候補を支持し、
 低学歴の低所得者・工場労働者がトランプ候補を支持した」
という主張。
ヒラリー候補は政治献金をよく受け付ける(=献金元を優遇する)一方、
トランプ候補は高所得者の納税比率を高めると主張しているので、
高所得者(金持ち)と低所得者(貧乏人)の支持の傾向が上のようになる
というのは自然な考え方である。
が、両候補の州ごとの勝敗図を見ると、
ニューヨークやワシントンDCといった東海岸北部、
それにロサンゼルスやシアトルといった西海岸でヒラリー候補が勝利している。
これらの地域はアメリカにおける人口密集地であり、工業地帯でもある。
それらの州に集中する金持ちがヒラリー候補を推したのかもしれないが、
貧乏人や工場労働者がトランプ候補支持の中核だったというのは当たってなさそうだ。
むしろ、南部や中西部の農業地帯(要するに田舎)の保守的な住民が
トランプ候補支持の中核だったと言えるだろう。

もう一つよく言われているのが、
「ヒラリー候補がトランプ候補以上に嫌われていた」というもの。
実際確かにそうだったようだが、問題は「なぜそれほど嫌われたのか」である。
日本では「ヒラリー候補は親中で反日的」といって嫌う向きもあるが、
アメリカ人にとってそんなことはどうでもよい話である。
実際のところは、「いかにもな本職の政治家(+弁護士)が嫌われている」
これが真相だろうと思う。
日本でも少し前まではそういう雰囲気があった。
そしてもう一つ、それと関連してよく言われることが
「Political correctness」、日本語では「政治的正しさ」である。

「少数者、弱者への差別はいけない」「移民、異文化に対して寛大な態度を」
公式の場では、これらのような主張に対してあからさまには反論できない。
これがすなわち「政治的正しさ」である。
もし立場のある人物があからさまにそれらの主張に反論しようものなら、
ネット上で騒がれ、マスコミからバッシングされ、「暴言王」の烙印を押される。
そう、要するに、トランプ候補のように扱われることになるのだ。
一方のヒラリー候補は、その前半生で弁護士として
法的正しさや政治的正しさを自らの伴侶にして活動してきている。
そして何よりも、自身が初の女性大統領となり
「見えざるガラスの天井」を打ち破ろうとする“差別される弱者”を演じていた。
政治的正しさという観点こそがこの両候補の対立を端的に示しているのである。
そして、マスコミもまた政治的正しさの守護者である。
そう考えれば、日米両国のマスコミがヒラリー候補を応援し
必死になってトランプ候補を叩くのは道理に適っている。

“政治的な正しさ”、それは、あからさまに反論しづらい主張のことである。
それは、国や時代が変われば内容も変わってくる。
自由と民主主義の国アメリカではこれらの価値に反する主張をしづらい一方、
北朝鮮などの独裁国家では独裁政府への批判がタブーとなる。
すなわち、北朝鮮では指導者への忠誠こそが“政治的な正しさ”なのである。
そしてかつての日本では、「御国のために」こそが“政治的な正しさ”だった。
それに逆らえば、マスコミから叩かれ、周囲から「非国民」と言って罵られた。
時代は変わり、日本では憲法が国民の言論・良心の自由を保障するようになった。
にもかかわらず、私たちは失言を恐れ、正しさを振りかざす弱者の発言を恐れ、
マスコミや有名人の言葉狩りに熱狂して生きている。
どの国、どの社会、どの時代に生まれようとも、
“原理”を振りかざして“自由”を否定する勢力から逃れることは至難である。

選挙の結果、政治的正しさを否定する側の“暴言王”ことトランプ候補が快勝した。
アメリカの国民(有権者)の多くが“政治的な正しさ”を否定したのである。
多少願望が入ってしまっているかもしれないが、私はそのように解釈したい。
そしてこの結果から、“原理”を振りかざして“自由”を否定する
アメリカのマスコミやリベラル派がそのことに気づいて反省をし、
自由を否定することの意味について真剣に検討してもらいたい。
なぜならば、それは日本ではできないことだからである。

日本は全体主義の傾向の強い国、国民性である。
日本人は周囲の空気を読む国民であり、孤立してまで反論できる者はほとんどいない。
すなわち、“政治的正しさ”の生じやすい土壌がある。
ひとたびそれが生じると、それを利用して自らの地位を確立するものが出てくる。
しかしやがては自身もそれに飲み込まれ、“政治的正しさ”が独り歩きしてしまう。
こうなるともはや誰にもそれを止められない。
我が国の歴史を見るに、それを止められるのはただ外圧のみである。
「ヨーロッパはこうだ」「アメリカはそうでない」「それがグローバルスタンダードだ」
ヨーロッパやアメリカが原理主義を否定し、行き過ぎた政治的正しさを拒否し、
無制限の移民の流入やマイノリティに特権を与えることが社会的に正しいかどうか
を真の言論の自由の下に議論し、より望ましい自由と民主主義を実践する。
そのあかつきには、自信に満ちた態度のアメリカ大統領が自らの価値を振りかざし、
その旗を日本の全体主義に突き刺してこの閉塞感に風穴を開けてほしい。

だから、そんな困った顔をしないで、以前の自信に満ちた顔を見せてね、トランプ大統領