戦争を考える(前編) ;嫌戦争と9条

この文章を書いている2017年10月14日は、
衆議院選挙を翌週末に控えての選挙活動期間真っただ中だ。
しょ…、候補者名連呼型の選挙カーが大通りを頻繁に往来している。
今回は別に衆議院の任期満了というわけでもなく、
国民に信を問うべき明確なテーマがあるわけでもない。
現時点では、やるべき意義のよく分からない衆議院選挙となってしまっている。
しかしながら、仮にもし今後これといった“国難”が生じなければ、
この選挙は後世「憲法改正選挙」として強く認識されることになるのではないか
と私は思う。

現時点で衆議院参議院とも自公の与党勢力が3分の2以上の議席を確保しており、
憲法の改正案を通したければ国会は通せる状態にある。
にもかかわらずそれがなされないのは、それができないとみなされているからだろう。
憲法を改正するためには、衆・参両議院で3分の2以上の賛成を得たのち、
国民投票過半数の賛成を得なければならない。
この件に関して公明党が消極的なのかもしれないが、
問題はやはり後者の「国民投票過半数の賛成」というところなのだろう。
新聞やテレビなどのマスメディアがこれほど躍起になって
安倍政権打倒を目指す一因は彼の憲法改正の意図にあると推測されており、
一定以上の世論が新聞やテレビなどのマスメディアから強く影響を受けていることも
また事実である。
となれば、(公明党が反対しないような)些細な内容の憲法改正であっても
それが国民投票を通過できるかどうかには慎重な判断が要求される。

そのとき、あまり露骨な偏向姿勢は避けたいはずのマスメディアは
「国会でまともに議論もされず、数の力で強行採決された憲法改正案には反対!」
という主張を展開するだろう。
そうなれば、改正案の内容はともかくとして
判官びいきに陥りやすい日本人の気質からし
その主張に同調する世論がある程度形成されることは想像に難くない。
では、与党勢力のほかに有力な野党も憲法改正を支持したらどうだろう。
マスメディアがどう言うかはともかく、国会では有力野党を交えた議論が行われ、
その後民主主義の原則に則った適正な採決がなされることになる。
そして、今回の選挙で有力野党の仲間入りを果たしそうな希望の党は、
党首の主義・思想からし憲法改正に前向きである。
今回の選挙で、与党勢力は3分の2以上の議席を確保できなくなるかもしれない。
が、その上で憲法改正に前向きな勢力が3分の2を上回るのであれば、
強行採決だ」という主張は誰の目からも説得力を失う。
衆議院解散を決行したときの安部首相がここまで策略を巡らせていたとは思わないが、
結果的に憲法の改正に順風が吹き始めたように感じられる。

憲法改正」と言うと、日本では根強い反対論がついて回る。
とは言え、反対派すなわち護憲派が本当に護りたいのは第9条、
いわゆる戦争放棄に関する条文である。
それ以外の点にはおそらくそれほど関心がない、にもかかわらず護りたいのは、
どんな些細な修正でもそれが実績となって将来的に9条の改正に至ってしまうこと
を畏れているのだろう。
日本に再び軍事大国化されては困る外国勢が9条を護りたい気持ちは分かる。が、
日本国民の中にも9条を護りたいと真摯に考えている人々がいる。
彼らのその信条の動機は、言うまでもなく「戦争は嫌だ」という気持ちである。
その一方、日本国民の中には9条を改正したいと真摯に考えている人々もいる。
実は、彼らの信念の動機もまた「戦争は嫌だ」という気持ちであることが多いのだ。
同じ気持ちが動機となりながら、なぜ正反対の主張が生まれてくるのか?
それは、戦争をどのように捉えているかによって変わってくるためである。

9条を護りたい人々は、戦争を
「自分または家族が兵隊にされて強制的にやらされるもの」と捉えている。
兵隊として戦地に赴けば、上官の命令で
敵兵やその協力者と疑わしき人間を殺さなくてはならない。
そして、おそらくは生きて帰ることが叶わない。
自分がその立場に置かれること、それにもまして自分の愛する人や息子が
そのような立場に置かれるのは断じて我慢できない。
それゆえの「戦争反対」である。
しばしば「9条バリア」などと揶揄される日本国憲法第9条も
このような立場で考えると完全に有効である。
自分の国が戦争をせず、さらに念を入れて「軍隊を持つことさえしない」
という誓いを守っている限り、誰も兵隊として戦地に赴くことはあり得ない。

一方、9条を改正したい人々は戦争を「自国に降りかかる災難」と捉えている。
自国が軍隊を持っていなければどうなるか?
近隣国はその無防備な国を侮り、やりたい放題で相手を顧みることはないだろう。
「9条を固持する崇高な国に手を出す愚かな国はないだろう」
これまでに北朝鮮がミサイルを排他的経済水域に撃ち込んだ国、
あるいはその領域上空を通過させた国はどれだけあるだろうか?
北朝鮮は、かつての交戦国である韓国の上空にさえミサイルを飛ばしてはいない。
戦争という災難を回避するという観点からすれば、
軍隊の保持さえ禁じる日本国憲法第9条は無効どころか完全に逆効果なのである。

では、相反するこの二つの考え方のどちらが正しいのだろうか。
1905年の日露戦争終結後、日本は基本的に戦争を仕掛ける側であり、
仕掛けられる心配をする必要のある国が周りに存在していなかった。
唯一の例外が米国であり、実際米国にはこっぴどくやられたのだが、
その後は米国に頼ることでその心配もなくなり、
戦後もしばらく日本は戦争を仕掛けられるよりも仕掛ける心配の方が強かった。
その場合、上で見たように9条は戦争の抑止に有効である。
では、こんにちの東アジア情勢を見るとどうだろう。
日本は戦争を仕掛ける側だろうか、それとも仕掛けられる側だろうか?
軍事力に基づく独裁政権、狂信的で排他的な国民宗教、過剰な人口圧、
周辺地域における植民地の獲得競争、他民族の支配欲、それに特定民族への過剰な敵意。
国家を戦争へと導く要素は数あれど、今の日本はそのどれ一つとして持っていない。
逆に、日本の周辺国ではどうだろうか。

結論を出そう。
こんにちの日本は、他国に戦争を仕掛ける心配は非常に小さく、
逆に周辺国から戦争を仕掛けられる心配が非常に大きい。
ゆえに、「戦争反対」を言うのであれば日本国憲法第9条を護るのではなく改正し、
降りかかる災難であるところの戦争を抑止・回避するための軍備を持つべきなのである。

私は基本的に戦争反対の立場だし、自分が戦争に行くのが嫌だ。
しかしながら他国の攻撃によって命を失ったり健康や財産を損なわれるのも嫌だし、
他国に支配されてその支配国の兵隊にされるのはもっと嫌だ。
それを抑止・回避するために必要だということであれば、
避けられない軍備や戦争は許容しなければならないと思う。