戦争を考える(後編) ;戦争のビジョン

こんにち戦争や戦略について語られる場合、その概念的な原型は
19世紀初めのドイツ(プロイセン)軍人クラウゼヴィッツにより書かれた
戦争論』での記述に拠るところが大きい。
そこでは戦略を「戦争行為の要素である戦闘を計画し、そこに目標を定める意志」
のように定義している。
それ以外で戦略についてよく言われるのは、
「戦術は城の落とし方、戦略はそもそも城を落とすべきかどうかの判断」
というような説明である。
いずれにせよ戦略は戦争における大局的な考え・判断に関わるもので、
相対的に戦闘や戦術よりも上位に来る、というのが一般的な認識である。

しかしこれもまたよく言われるように、
戦争における最上位の概念は「勝利条件」であるべきだ。
これが明確でないと、日中戦争での日本陸軍
アフガン戦争(今も継続中だよ)での米軍のように泥沼にはまり込んでしまう。
以上を踏まえて戦争における概念の相対的な位置関係を書き出すと、
 勝利条件 → 戦略 → 戦術 → 戦闘
となって分かりやすい。
○戦略は戦争における勝利条件を達成するまでのアウトライン・計画
○戦術は戦略上障害となる個々の事象への対処法
○戦闘はその対処法を実践するために必要な(要素としての)行為
としてそれぞれが相対的に再定義できる。

ところで、戦略が採用されるのは何も戦争だけに限らない。
企業などの経営理論においても戦略は重要な位置を占めている。
経営の分野でさすがに戦闘や戦術はないが、
その代わりに戦略を実現する施策(policy)が存在する。
経営理論において戦略は企業が業務目標を達成するための計画・方針であり、
その点でこの「業務目標」が戦争論における「勝利条件」に相当する。
ところが、企業は戦争と違い業務目標を達成してもそこで終わるわけではない。
ゆえにそれよりも上位の概念として、
長期間にわたる企業の在り方を定める「ビジョン」が存在している。
日本語では「企業理念」とでも表現されるだろうか。
これらをまとめると、経営理論における概念の相対的な位置関係は
 ビジョン → 業務目標 → 戦略 → 施策
のようになる。「戦略」が随分と下位に位置している。

ただし、これは経営理論の話である。
実際には「戦闘」にあたるもの、例えば日常業務や現場作業的なものが
戦略に基づく個々の「施策」の下にあるはずだ。
逆に言えば、戦争論にも「勝利条件」の上に「ビジョン」のようなものがあっていい。
戦争自体は非定常的なものであり、双方ともが勝利条件を達成できなくても
戦争の継続が困難になればそこで実質的に戦争は終結する。
が、その当事者である国または勢力はその後も存続し続ける。
ゆえに、戦争の上に位置するビジョンが必要なのである。
前述の『戦争論』でも「戦争は政治に従属する」と述べられている。
戦争が政治家のおもちゃにされるような事態はあまりよろしくないが、
ここでは「戦争は当事者のコントロール下にあるべき」と言いたかったのではないか。
感情論(主に復讐心)や責務感に基づいた戦争はすべきではない、と。

過去の戦争を例に考えてみる。
例えば三国志では、戦争にちゃんとしたビジョンが存在している。
三国鼎立、あるいは天下三分の計と言われるものである。
二つの強国が互いに覇を競って争う状態は不安定であり、戦闘が絶えず人民が苦しむ。
しかし三つめの強国が存在すると(第三国に漁夫の利を狙われるので)安易に
二国間での戦闘ができなくなり、不安定さの中に安定が生まれるのである。
そんな策略を画策した諸葛亮孔明)は自ら軍師となり、蜀の国家立ち上げに加担した。
日本で戦争戦略の神と崇められる孔明は、その上に明確なビジョンを持っていたからこそ
有効な戦略を打ち出すことができたのだろう。

あるいは、現代日本で愚かな戦争とされる太平洋戦争にも明確なビジョンが存在した。
大東亜共栄圏構想」である。
これは、今の中国・東南アジア・日本列島・太平洋・インド洋の諸島で
ブロック経済圏・文化圏を構築して圏内で持続的な繁栄を達成する、という構想である。
「鬼畜米英」とは言うが別に憎くてアメリカ・イギリスに戦争を仕掛けたのではなく、
大東亜共栄圏の内部に植民地支配の拠点があるから、
もしくはその構想の邪魔をする勢力への支援をやめさせたいから
仕方なくそれら二国との戦争に至ったのである。

このようにビジョンが明確である場合、
戦争の目的、すなわち勝利条件も明確になり、有効な戦略を打ち出しやすい。
一方でビジョンの不明確な戦争の例は、ノモンハン事変だろうか。
これは太平洋戦争の開戦より少し前に起きた実質的な日本とソ連の戦争である。
日本の軍部(陸軍)の暴走で生じた実質的な戦争であり、
その結果日本陸軍は何も得ることのない実質的な敗北を喫している。

現在の日本は「戦争放棄」を明言しているため、戦争の勝利条件は考えなくてよい。
ただし自衛のための戦争まで放棄してはならない。
これを放棄すると、自衛の戦争を行う他国までが
日本の例を引き合いに出されて非難される事態になりかねない。
そうなれば軍事力に物をいわせる覇権国家が世界の安寧を打ち砕くことになり、
日本の自衛戦争放棄が間接的にその片棒を担いだことになってしまう。
逆に、これは自衛戦争を放棄しない国家にとっての「ビジョン」となり得る。
軍国主義覇権主義の国家がもたらす戦争の拡大をくい止め、
一般市民がいたずらに命や財産・権利を奪われない世界の維持、である。

ビジョンの次は「勝利条件」だ。
自衛の戦争でもやはり勝利条件を明確にしておかなければならない。
被占領地の回復? 謝罪と賠償の要求(の受諾)?
いいや、そうではない。
自衛戦争における勝利条件はただ一つ、侵略勢力側の侵略能力の喪失である。
侵略部隊を完全に撃退、もしくは武装解除させられれば防衛側の勝利だ。
歴史的には、カミカゼによる元寇軍の完全撃退、あるいは
スターリングラード攻防戦でドイツ軍を降伏させたソ連の例が挙げられる。
撃退まではできなかったとしても、停戦合意や経済制裁によって
法的に侵略能力をなくすことができたならばやはり勝利と言っていいだろう。

ところが、こんにちの戦争では長距離弾道ミサイルという兵器が使われる。
侵略部隊はこの弾道ミサイルを使って、地球の反対側の土地を攻撃できる。
攻撃される側が飛来する弾道ミサイルを迎撃できたとしても、戦争はそれで終わらない。
侵略する意図も能力(次のミサイル)も有する侵略部隊が敵地に健在だからだ。
侵略部隊の攻撃をやめさせるには、侵略部隊そのものを攻撃しなければならない。
前述した停戦合意や経済制裁による「法的な勝利」という手もあるのだが、
今の世界には国連合意や経済制裁をまるで意に介さず
ただひたすらに軍備と他国への敵意の増強に邁進している国があることも
残念ながら事実である。彼らに「法」は通用しない。
そのような国からのミサイル攻撃に対する自衛戦争に勝利するには、
相手国内のミサイル基地を攻撃する能力がなくてはならない。

今の日本は「国際問題を解決するための手段としての戦争」の放棄を明言しており、
他国を侵略するための軍隊を持つ必要はないし持つべきではない、と思う。
しかし日本は国際社会での責任として自衛戦争を放棄すべきではないし、
その自衛戦争を担う自衛隊が相手国内のミサイル基地を攻撃する能力を持ってはならない
という主張は正しくない、と私は考える。