話せば分かる

「話せば分かる」
5.15事件で暗殺された時の首相、犬養毅が暗殺者に向かって最後にかけた
言葉であることは、こんにち小学校の歴史の授業で習う話である。
歴史の授業で習った当時はこの事実に対して特に何の思いも抱かなかったが、
これは昭和の初期に日本の社会が話の通じない軍国主義全体主義へと進みつつあった
時代を反映した言葉として歴史の授業で扱おう
という教育的な狙いが込められているようだ。
ところが、近頃読んだ本によると
当時現場に居合わせた遺族の証言ではそうではなく、犬養首相が最後に放った言葉は
「話を聞こう」
だったというのである。
若き軍人だった暗殺者の答えが「問答無用」と銃撃だったという事実は変わらず、
最後の言葉のちょっとした違いにどれだけの歴史的な意味があるのかは分からない。

しかし考えてみると、ピストルを構えた狂信的な若き軍人に対して「話せば分かる」
というのも変な話ではある。
この暗殺者はもちろん決死の覚悟のうえでここまで来ているのであって、
その彼に対して一体何を話せば分かってもらえるというのだろうか。
そういう考えからか、当時の犬養首相には陰謀めいた裏事情があった
という説まであるようだ。
誤解されやすい裏事情があり、その真相としては軍人諸君にとっても悪くない話である
ということだとすれば、確かに「落ち着いて話を聞いてくれ、話せば分かる」
と言いたくもなる。
逆にそういう事情がないのであれば、目の前に立つ暗殺者に対して放つ言葉としては
「話を聞こう」のほうが自然であるように思われる。
ピストルを構えた狂信的な軍人に対してはいかなる説明も説得力を失い、
慌てて弁解をしたところで「問答無用」となるのは目に見えている。


ところで、この説得力とはいったいどのようなものなのだろうか。
文字の通りに解釈すれば、話をする相手を説得する力である。
説得された状態とは、相手の主張に賛同して
必要があれば相手への協力をする用意のある心理を差すだろう。
では、主張を異にする相手に対してどのように説得すれば、
相手の心理をこのような状態に持っていくことができるだろうか。
通常であれば論理的に、あるいは情に訴える形で自らの主張の正しさを訴えるだろう。
相手の主張が明確になっているのであれば、その主張の弱点・問題点・間違っている点
を指摘して翻意を求めることもあるかもしれない。

しかし、それ以外のやり方もある。
自らの主張をぶつけてくる相手に対して、
議論の論点をずらしてそちらの論点で自らの主張を展開するのである。
ずらされた論点における主張を相手が持っていなければ
それに対して反論することができず、
その議論では相手の主張の正しさを認めるしかない。
そして元の論点を議論の外に追いやってしまえれば、
少なくとも相手の元の主張を自分が聞き入れずに済んだという点では
相手の説得に成功したということができる。

もちろんあからさまに議論の論点をずらしたのでは、すぐに相手に気づかれてしまう。
だが、例えば相手が総論的な主張をしている議論でより具体的な各論を持ち出した場合、
もしくはその逆に、より抽象的な総論を持ち出した場合はどうだろう。
議論がつながっているため
論点のすり替えだ」という批判を受けてもそれに対して反論しやすく、
また相手が激高している場合には
この「論点のすり替えか否か」という論点に議論の焦点を移して
議論を元に戻しづらくすることも可能だ。
新たに持ち出した論点での議論で相手の主張に屈したとしても、
それで論点のすり替えができたのであればよし、加えて相手はそれにひるむだろうから
まさに「負けるが勝ち」の説得法である。

では、この型の説得力に問題はないのだろうか。
倫理的な問題はともかく、そのような議論が発生した状況に対して
自らの主張がどのように認められるか、という実際的な影響についてである。
相手の主張の矛を収めさせた時点で、その相手を説得したことになるかもしれない。
が、この場合相手は間違いなくその議論の結果に満足していない。
すなわち、説得者の主張には納得していない。
納得していない相手は説得者の主張を他の人物に広めることができず、
また広めようとも思わない。
逆に次の機会には何とか説得者の主張を論破しようという情熱をたぎらせる可能性が高い。
ということを考えると、これはいうなればその場しのぎの説得である。

一方もし相手を心から納得させることができれば、
その主張は説得相手の口を通して、あるいは議論を生じさせた元凶に影響を与え、
自らを含む社会環境そのものを自らの望む方向に変えていくことにもつながる。
先の例に当てはめれば、目の前に立つ暗殺者が暗殺対象(説得者)の殺害の意思を翻し、
彼の拠点に戻ってその事情を同志に伝える状況である。
本当に話せば分かる裏事情があったのであれば、
そしてそれによって暗殺者である若手軍人を納得させて帰すことができたのであれば、
その後も軍部が彼を暗殺しようと試みることはなくなっていただろう。
これがその場しのぎでない説得であり、
このような説得を実現できる主張(あるいはその展開)が
「説得力を持つ」と表現されるべきなのだ、と私は思う。

では、この説得力の源泉は何なのか。
一般的な説得力の源泉として、私は二つの要素を指摘する。
一つ目は、主張が拠って立つ根拠である。
根拠といってもイメージとして普通考えられるほど難しいものではなく、
名探偵の推理のように理路整然とした論理展開の他にも、
常識や感情、あるいは人情といった主観的な性質のものでも主張の根拠となり得る。
ただしそれが有効な根拠となるためには、
説得する相手も認める確かな裏付けを持っていなければならない。
例えば、目の前に立つ暗殺者に対して人情を訴えても無駄である。
暗殺者が狂信的な軍人である場合、
警察からは逃げられないぞといくら脅してもやはり無駄である。
一般的には確かな裏付けのある理論であっても、
既に決死の覚悟でいる暗殺者はその裏付けを共有していないからである。

説得力の二つ目の要素は、説得対象が理解できること、つまり分かりやすさである。
自分がいかに有能で重要な政治家なのかを
経済や外交儀礼の専門用語を駆使してして説明しても、
狂信的な若手軍人には理解してもらえないだろう。
しかし、軍人勅諭ならば当時の軍人はそのすべてを理解していたはずだから、
そこに記されている言葉で憂国の思いを述べるか、
もしくは錦の御旗に逆らって謀反を起こす企ての愚かしさを語って聴かせたならば、
あるいは彼の決死の想いを翻させることができたかもしれない。
実は一つ目の要素として挙げた「根拠」というのも、
自分の主張の意図を説得相手に分かってもらうためのツールである。
そう考えると、この二つ目の要素のほうが他者の説得にとってより本質的である
ということもできる。

こうした考察から分かるのは、
「説得力のある説明」は一筋縄ではいかず、説得の相手によって変わってくる
ということだ。
説得力のある説明をしたければ、まずは相手のことを調べてその素場や背景を知り、
相手の立場に立ち、相手の気持ちになって論点を考えてみなければならない。
そのうえで、
相手が知らないだろうこと、誤解しているだろうこと、求めているだろうことを推測し、
それらを補い正す試みが必要不可欠なのである。
自らの想いや主張を述べるのは、
その試みが十分に効果を発揮した後でなければ意味がない。
未知の土地に建築をするのは十分な地盤調査と基礎工事のあとでなければならない
のと同じである。

もしあなたの周囲があなたの言葉を容易に聞き分けたとき、一度疑ってみるといい。
彼らは本当に私の言うことに納得しているのだろうか、
私の言葉には彼らに対する説得力があるのだろうか、と。
彼らの背景や心情を知らなかったり、
自らの言葉の中に専門的で難解な知識が多く認められるようであれば、
実は周囲の誰もあなたの言葉を聞いていない、
という可能性を疑ってみるべきなのかもしれない。