分かりやすさ

この時期、研究発表会や成果発表会を開催する会社はうちだけではないだろう。
そういう会の意義としては、会社の上の人間が研究や事業が実際に行われている状況を
確認するということの他に、
下の実務者が分かりやすいプレゼン能力を身につけることも含まれるのだろう。
 
プレゼンを分かりやすくする手法、というか約束事のようなものがいくつかあるが、
その中でも意外と重要なのが「聞き手の予想を裏切らないこと」である。
正直なところ、これなどはプレゼンをつまらなくする一番の要因だと私は思うが、
それは聞き手による。
若い柔軟な思考の持ち主が聞き手であれば相手が意外に感じるようなことを
ずばずばと挙げていけばいいのだろうが、
サラリーマン研究者の相手は常にお年を召した方々である。
その場合、予想が裏切られた段階で彼らの心に反発が生じてしまい、
それ以後の話はほとんど記憶に残らない、と考えておいたほうがよい。
相手の予想をうまく誘導するように伏線を用意できればいいのだが、
そうでない場合は最悪結論のほうを予想されるものに近づけることになる。
別にそれで論文を書くわけでもないし、世の中に影響するわけでもないのだから、
難しく考える必要はない。
 
しかし、これでいいのか、とは疑問に思う。
分かりやすい話ばかりを聞かされている人間は果たしてどうなってしまうのか?
分かりやすさの正体は大抵簡単な数値比較か直観的なイメージであり、
分かりやすさに慣らされた人間はそれらに容易にだまされるようになる。
かつてアメリカがイラク大量破壊兵器開発疑惑で糾弾した際、
当時の世界でトップクラスの頭脳集団が作成したのであろう電子紙芝居を国連の場で披露し、
披露し終えたアメリカの偉い人は感極まったというように仲間と抱き合って涙を流していた。
この光景は印象的で今も鮮明に記憶しているが、
彼らの主張のどこがそんなにすごいのか、それがまったく分からない
という印象を受けたこともまた鮮明に記憶している。
ちなみに、今現在列車型の移動式化学兵器工場なるものを
あの電子紙芝居以外で私は見たことも聞いたこともない。
 
大きな会社の偉い人たちは、
研究開発の対象を「かっこよさ」というイメージで決めているように思えてならない。
ここで言う「かっこよさ」とは、然るべき学会の場などで自分がかっこよく発表できること、である。
市場だ、売り上げだ、利益だ、と彼らは言うが、まったくその通り。
それらはイメージだけでは得られない。
イメージにだまされていては、明日新聞にかっこ悪く書かれるのは私達かもしれませんよ。