うまい文章とは

先日、TOEIC対策講座を受講してきた。
一応説明しておくと、TOEICとは一言で言えば英語のテスト。聞き取りと文章読み取りの問題からなる。
その目的は「あなたが英語圏でどれくらい社会に適応できるかを量ること」と、はっきりしている。
そのため、例文には手紙やE-mail、広告や通達文といった実用的な文章が用いられる。
その講師曰く、「英語の文章は必ず結論を含む導入、それに続く本題部分、最後に結論がくる」。
そしてさらに、「そういう文章がいい文章である」。
うーん、そう言われると反論できない。が、気分的には反論したくて仕方がない。
 
確かに、そういう構造の文章であれば書き手の意図を読み手が簡単に理解できる。
私だって仕事上のメールは分かりやすさを最重視して書くし、
論文や報告書であればそれにふさわしい定型の構造を持つ文章を書く。
しかし、私にはそれがうまい文章だとは思えない。
よしあしはともかく、文章のうまい/下手が問われるのは小説、エッセイ、そしてブログであろう。
それらの文章が「(結論を含む)導入→本題→結論」という構造だったら、読んでおもしろい?
 
読んで面白い文章、遊び心のある文章、彼の別の文章も読んでみたくなる文章が、
私にとって「うまい」と感じさせる文章であるように思われる。それらはまた独創的でもある。
一方、読み手に分かりやすくて機能的な文章をよい文章とするならば、
それは定型的で誰が書いても同じような文章となる。
その究極的なものがコンピュータ・プログラムであろう。
バイナリー・エディタでしか見られない機械語のプログラム、人間には読むことができない。
けれども、読み手であるコンピュータにとっては分かりやすいよい文章である。
世界の共通語としての地位を築きつつある英語は、
先述の講師が言うように機能性のみが「よし」とされる言語になっていくのかもしれない。
 
と言いながら、実は私はコンピュータ・プログラムのよさについても少しうるさい。
コンピュータ・プログラムはコンピュータを思い通りに働かせるという目的の下にあり、
それゆえその目的が達せられているかどうかでそのよさが決まる。
あるいは、仕様の変更の必要が生じた際の変更のしやすさ、
複数人数で作成する場合には他人の読みやすさなどもよさを決める要因となりうる。
しかしながら、プログラムにはそれだけでは測れないよしあしがある。
「単なるプログラマーの自己満足だ」と言われれば反論しづらいのだが、
この気持ち、プログラムを書いたことのある人なら分かってくれるよね?
結局のところ、それは「美しさ」なのかもしれない。他人には否定できない審美観。
そう、私は美しいものが好きなのだ。文章も、プログラムも、人間の女性でも。
 
という感じにTOEICには絶対に出てこないような文章を書いてみましたが、だめ?
やっぱ自己満足でしかないのかな…。