ダーウィンの愛した無神論

今年のGWは特に大きな旅行もせず、読書などでゆっくりと過ごした。
昔購入したスティーヴン・ジェイ・グールドの進化論に関する本を読んだ。
この著者はダーウィン理論の擁護者としてアメリカでは有名な学者で、
何かの雑誌に連載していたエッセイをまとめて本にしていた。
正直文章は脱線的な挿話やたとえが多くて読みづらかった。西洋人のエッセイの特徴だろうか。
 
なぜ彼が「ダーウィン理論の擁護者」をしているかといえば、
ダーウィンの進化論はキリスト教だけではなく、進化論の積極的な信奉者からも誤解されているから、だという。
彼の主張のメインは、
ダーウィンの提唱した自然淘汰の理論は、生物の『進化』というより『適応への変化』を説明するものである」
ということになる。
「進化」という概念を考える場合、低度⇔高度という尺度が自然に定義できてしまう。
進化を考える上では、複雑で高機能なほど高度である。そしてこのとき、高度なものほど望ましい。
しかし自然淘汰の理論ではそうではない。
上の尺度で低度なことが望ましいこともあり、その場合は退化が起こる。
 
この点はダーウィン自身がはじめから注意深く慎重に主張していたにもかかわらず、
ダーウィンの心配したとおり世間は誤解・誤用した。
私達にとってこの主張は目新しいものではないようにも見えるが、
実は私達も正しくは理解していないように思われる。
実際、生物の形態には上述のような尺度を適用できるのである。
「複雑で高機能なほど高度」という観点からすれば、コウモリのほうがネズミよりも高度であり、
洞窟に住む眼の退化した生物よりも外界に住む眼を持つ生物のほうが高度である。
ダーウィンの暗黙の主張は、「生物の形態の複雑さ・機能性の尺度には深く立ち入らない」ということになる。
私は、この「複雑さ・機能性の尺度に関する進化」という現象について、
現在ある進化論は十分な説明ができていないと考えている。
 
 
進化論という概念はダーウィンが言い出す19世紀の中盤よりも前から西洋社会に存在していた。
そしてそれは、当時のキリスト教とも一応うまく共存していた。
にもかかわらずダーウィンが20年以上公表をためらうほどキリスト教の反発を恐れたのは、
進化論が「創造主の生物の創造」を否定するからではなく、
自然淘汰の理論が「生物の創造への神の介入」さえも否定してしまうからである。
生物は知性の介入がなくても、自分達だけで自らの創造を達成したのである。
西洋の感覚からすれば、これこそ文字通りの無神論である。
 
一方技術者の感覚からすれば、このようなシステムは理想的だ。いわゆる「フール・プルーフ」というやつである。
「人間」という知性の介入がなくてもうまく運営されるシステムは経済的に強い。
「コンピュータ」という制御機構の介入が失われたとき自発停止するシステムは事故に強い。
地震などの非常時に制御棒が核分裂反応を自発停止させる原発の安全システムは原発関係者の誇りである。
であるならばもう一歩進化して、
原子炉停止後に外部電源がなくても自発的に原子炉を冷却するフール・プルーフを組み込んでほしかった。
いかなる無神論者であっても、奇跡的な「生物の創造」について考える意義は小さくない。