マイノリティを擁護する理由

 先日、朝の民放情報番組でLGBTの権利拡大に反対するどこかの議員の話題が取り上げられていた。当然のことながらその議員をバッシングする傾向の強い姿勢で扱われており、その議員に対して辞職を求める強迫も多く届けられている、との説明もあった。特に政治に関する言論の自由の観点からこのような脅迫行為は明らかに問題なのだが、そのような指摘等はなされなかった。いや、件の議員に対して脅迫のなされた事実が報道されたこと自体、報道現場にできる精いっぱいの批判であったのだ、と私は好意的に解釈したい。

 LGBTの権利拡大に関する意見の展開は差し控えるが、私はLGBT等の社会的マイノリティが社会から差蔑されたり攻撃されたりされるべきでないと考えるし、同様に社会的マイノリティが他者を攻撃すべきでないとも考えている。社会的マイノリティであれば反社会的行動・犯罪行為すらも許される、などと考える文明人はいないように思われるが、実際のところはそうでない人間が少なからず存在している。アメリカで展開されていたBLM(黒人の命が重要)運動の先鋭化された実施者がその典型例である。

 平和的なデモ活動に飽き足らず、商店を襲って略奪したり警察署を襲撃したりといった数々の反社会的行動を、当のアメリカ人たちはどのように見ているのだろう。黒人は社会のマイノリティだから仕方がない、無実なのに警官に殺された黒人がいるのだから仕方がない、と考えているアメリカ人がどれくらいいるのだろう。やはりマイノリティであるアメリカ在住の日系人が同様の反社会的運動を展開したとして、それを支持する日系人・日本人が果たしてどれくらい出てくるのだろう。そう考えると、社会的マイノリティを擁護する立場の民主党(米)の支持率にとってこのBLM運動はマイナスに作用し、今度のアメリカ大統領選挙ではその対立候補となる現職のトランプ大統領にとってかなりの追い風が吹くことだろう。

 日本人の多くは、声にこそ出さないまでも、性的な嗜好対象ないし恋愛対象が自身の性と対応していない個人の総称であるLGBTのことを性的異常者だと考えている。そしてLGBTはそのことに我慢がならず、その不満を他者への攻撃性に転嫁する者もいる。果たしてLGBTは異常者だと言えるのだろうか。異常者とは正常でない者のことであり、病人とは異なる概念である。もちろん犯罪者とも異なる。地球に生まれた生命における性の仕組みは異性との生殖を目的としており、その観点からすればLGBTは正常だとは言えない。LGBTはマイノリティであるがゆえに異常なのではなく、性の仕組みという生物学的な観点から異常なのである。この点は受け入れなければならない。この点を受け入れられないと、主張が先鋭化して自身を含む多くの人間を不幸に陥れる反社会活動に向かって道を踏み外すことになるだろう。

 ここで話を少し一般化するための問題提起をしたい。マイノリティ(少数者)であることが異常とみなされる事由となり得るだろうか。たとえば、生物の中には雌雄の個体数が著しく偏っているものがある。クマノミなどの魚類の一部ではオスの個体数と比べてメスの個体数が著しく少ない。この場合、個体数の少ないオスは少数者であるがゆえに異常だと言えるのだろうか。前述の観点からは、クマノミという種を存続・繁栄させるための性の仕組みの一環としての機能を担う少数のメスは正常であり、異常者とは言えない。

 クマノミの場合、オスからメスへの後天的な性転換を行う個体がある。群れの中で一匹のメスが死ぬと、残されたオスの中の一匹が雌に性転換するという。この場合、逆に群れの中で一匹ないし少数であるべきメスの数が多いと“群れとして異常”ということになり、その中のメスは多数派であるにもかかわらず異常者となる。人間社会にあっても、どういう観点を採用するかによっては多数派であるにもかかわらず異常者となることもあると認識すべきであろう。

 ところで、日本でもアメリカでもマスコミはマイノリティを擁護する立場をとる。その一番の理由は「ポリコレ的にはマイノリティ擁護が正義だから」であるが、それだけで説明がつくのだろうか。行き過ぎたマイノリティの反社会的行為を擁護することもポリコレ的な正義なのだろうか。ポリティカル・コレクトネス、略してポリコレ。日本語に直訳すれば、「政治的な正しさ」である。簡単には反論できず、それを振りかざす者は大きな快さを得ることができる。その性質に照らし合わせれば、反社会的行為の擁護をポリコレとするのには少々無理がある。にもかかわらず行き過ぎたマイノリティの反社会的行為を擁護する者は、いかなる動機を持っているのだろうか。

 孫氏の兵法に曰く、いくさに勝つための効果的な工作として「敵の分断」がある。直接的には敵の軍隊を小集団に分けて各個撃破を目指す戦略なのだろうが、国家の興廃を考える上では仮想敵国の社会を分断することだと解釈することもできる。そしてその場合、国内社会に不満を抱いているマイノリティを扇動するのが最も容易で効果的なのである。アメリカや日本は今、国内社会の分断を目論む工作にさらされているか、もしくはそれと同等の効果を持つ自発的な活動にさらされている。私に言える一つだけ確かなことは、いずれの社会にあってもその分断の危機に陥れかねない活動を悪事だと糾弾する行為は正しい、ということだ。それは社会を健全に維持するものであり、自らの社会を不健全な状態に陥れたいと願う行為は正しくない、ということでもある。自殺(切腹)上等といった我が国の悪しき考え方は、先の敗戦とともに歴史の遺物となってほしい。