新型コロナウィルス感染症の謎:追記Ⅰ

 先週書いた新型コロナウィルス感染症の謎について、手掛かりになるかもしれない情報が出てきた。アメリカを中心に、国民の中で本ウィルスの抗体を保有する人の比率を調査しようという動きが出てきている。アメリカのある都市では、市民の30%がすでに抗体を持っていたという調査結果が報告されているらしい。抗体を持つ人間はこの感染症に対して免疫を持つことを意味しており、ウィルスにさらされても感染を免れることができる。このように人口の大部分に抗体を持たせることで感染症の拡大を防ぐ戦略を「集団免疫」と呼ぶ。アメリカや日本の当局および関係者がこの点に関心を持つのは、この集団免疫との関連を暗に考えてのことである。
 
 けれども、これは戦術的には正しくない。集団免疫とは本来国民に対する半強制的な予防接種を前提とするものであり、それなくして国民の大部分を疾病の原因であるウィルスに感染させることはあり得ない。それは感染症に対する医療の無条件降伏であり、冷静な人間が考えるべき戦術ではない。不安や恐怖のあまりパニックになった人間がすがるタイプの戦術であるが、実際のところその実施に要する期間は意外と長く、その間は想像を絶する阿鼻叫喚の状況が続くことになる。今の状況で集団免疫を主張するような人間が耐えられる状況ではない。したがって本ウィルスに有効なワクチンが存在しない現時点において全人口における抗体保有率を議論する意義は大きくない。
 
 とはいえ、もし上記の調査結果が正しく、さらにその結果が示唆するところ、欧米の感染拡大地域において全人口の数%に相当する感染者の10倍の抗体保有者がいるとすると、それは前回書いた“謎”の回答として状況をよく説明するのである。すなわち、抗体保有者を感染者と同等とみなすことで感染者の比率は都市人口の数十%、半数前後となり、感染者の増加ははっきりとした鈍化傾向を示すようになる。それはこのところイタリア、スペイン、それにニューヨークといった感染拡大地域で見られている傾向と同じようなものになると推測される。そして抗体保有者は感染者としては認知されないため、感染者は高々人口の数%、検出能力の限界もあって1%程度しかいないように見えるだろう。
 
 こう書くと、「感染者と認知されない抗体保有者」というのは当初から存在が指摘されている無症状感染者のことであると解釈されやすいだろうが、私はそうではないと思う。そうだとすると無症状の感染者が症状のある感染者の10倍程度いることになってしまうが、そうなると症状のある感染者が特殊な存在だということになり、顕著な特徴・傾向が顕れてくるだろう。アメリカでは黒人とヒスパニックの貧困層で感染率が高い傾向が見られているが、それが答えだとしたらもっとはっきり出てくるはずである。トランプ大統領をはじめとする白人がこの感染症の存在を重視しなくなるほどに。
 
 実際はそうではなく、あるとしたらそれは「抗体保有者は非感染者であって感染者とは完全に別物」ということだと思われる。たとえば、ワクチン接種者は抗体保有者であり感染者とは完全に別物の非感染者である。もちろん現時点で新型コロナウィルスの有効なワクチンは世界のどこにも存在しないのでワクチン接種者も存在しているはずがない。けれども、ごく微量のウィルスにさらされた者は感染することなく抗体のみを獲得できるということはないだろうか。かつてジェンナーが種痘(無毒化・弱毒化されたウィルスによるワクチン)を開発する以前には、天然痘ウィルス自体を薄めて予防接種に用いていたという。今回それがたまたま実現されていた可能性はあるのではないか。
 
 知っての通り、新型コロナウィルス感染者と濃厚接触した者はそれにより感染するリスクが高い。ここでいう濃厚接触とは、咳や発話により主として口から放出されるウィルスを含んだ飛沫やエアロゾルを体内に吸引し得る行為、およびその飛沫等が手や食物を経由して体内に侵入し得る行為である。この場合、多数のウィルスが一度に体内に侵入するため、接触者はウィルスの感染を免れられない。これに対して、そのような領域に短時間滞在して少量のエアロゾルを吸引するような場合、体内に侵入するウィルスの数はごく少数である。が、ゼロではない。このようなとき、免疫が弱っていなければ、あるいは運が悪くなければ、感染に至ることなく体内の免疫機構が新型コロナウィルスの抗体を獲得するのではないか。だとすると、市中に感染者が一定比率以上にあふれる状況で急激に非感染・免疫獲得者が急増して感染者の増加が鈍化する現象をうまく説明できるのである。
 
 日本では感染者の最も多い東京都でさえもそのような状況に至るはるか前の段階にあると考えられ、すでに1か月近く不要不急の外出自粛努力を続けているにもかかわらず限定的な効果しか見られていない。けれども、満員の通勤電車に乗る機会の多い東京都民の多くは実はすでに新型コロナウィルスの抗体を獲得しているのかもしれない。インフルエンザについて考えると、私たち都市居住者は年に何度も少数のインフルエンザウィルスにさらされているはずだが、特に予防接種を受けなくても一度もインフルエンザに罹患しない者が大多数である。このアイデアは主張ではなく希望的憶測に過ぎないが、特に感染者の同居人で未感染だった者への抗体検査を行ってその可能性の是非を追求してほしいところである。