日本のPCR検査に関する主張の考察

 今回の新型コロナウィルス感染症に関して、日本において最も熱い議論となっているテーマの一つがPCR検査である。このテーマに関しては、本感染症が国内で深刻になり始めた2月末からこんにち(5/15)に至るまで形を変えつつも議論が続いている。いや、正しくはそれぞれの利害を持つ者が自らの主張を繰り返している、というべきかもしれない。議論がなされるべき場で適切な議論がなされることなく、マスコミなどを介して主張ばかりが飛び交っている印象で、これでは感染症よりもさらに長く終息しない可能性すらあるだろう。
 
 PCR検査に関する主張の構図はごく簡単である。国内の検査能力を増やすべきなのか、そうではないのか。基本はこの対立軸のみである。けれどもこのシンプルさが災いし、かえって考慮されるべき本質的なところが隠されてしまっているように感じられる。通常「能力を増やすべきか」という形での問題提起に対しては「増やすべき」という答えしかないように思われるが、現時点での私の考えは「無理に増やすべきではない」である。以下、双方の主張の根拠を検討しつつ、私がそのような考えに至った過程を述べていきたいと思う。
 
 まず事実として、本感染症が国内に広がり出した2月の中頃から、日本国内の検査能力は他国と比較して少ないことが指摘されていた。そして初期にはこの点を根拠として国内の検査能力を高めるべしという主張がなされていた。PCR検査とはウィルスの遺伝子に由来する分子(DNAあるいはRNA)を増幅させたのちにそれを検出するものであり、1回の検査に速くて数十分の時間がかかる。さらに検査試料の高度な取り扱いが要求されることもあり、容易に検査能力を高めることはできない。高めるには多くの人的・経済的リソースを投入して少しずつ増やしていくしかない。「短時間で安価に検査できる」という触れ込み・売り込みがしばしば出てくるが、それはまず間違いなく検査精度を犠牲にしたものだとみなしてよいだろう。
 
 「検査能力を高めるべし」という主張に対して、初期には有力な二つの反論があった。一つ目は、この検査精度に関するものである。陽性を陰性と誤る偽陰性が生じると、他者に感染させる能力を持つ感染者に「社会へ出てもよい」というお墨付きを与えてしまうことになり、問題である。しかしさらに深刻なのはその逆の偽陽性で、実際の感染者がほとんどいなかった頃にこの偽陽性者が大量に認定されると医療崩壊が生じるという懸念が提起されていた。この点に関してその後の続報が出てこないのが不思議だが、実際には偽陰性と比べて偽陽性の生じる確率は有意に低かったようである。以前韓国で初期の感染爆発を引き起こした新興宗教団体のソウル支部に対してソウル市当局が数万人規模の強制PCR検査を実施したところ、陽性判定者はわずかに2人だったという。この結果により(情報の発信源である)ソウル市当局は、強制捜査を行ってめぼしい証拠が得られなかった検察などと同様に面目を失ったことを考えると、この結果および報道(;もちろん日本で報道されることはなく、ネットニュースでしか知り得ない話)には信ぴょう性があると考えられる。そしてこの結果は、PCR検査における偽陽性発生率がかなり低いことを示してもいる。
 
 二つ目の反論としては、「検査を受けるために大勢が検査機関に詰めかければ、そこで感染拡大が生じてしまう」というものだった。これも的を射た重要な指摘であるが、韓国がドライブスルー方式の検査を導入してその対策とし、こんにちまでにその有効性が示されている。ドライブスルー方式導入のニュースはこの指摘が出されたよりも後だったので、おそらくは韓国の当局がこの指摘を認識したうえで対策をとったのではないだろうか。だとしたらこれは優秀な対応であり、この点に関しては各国が見習うべきであろう。ちなみに、こんにち感染症が爆発的に広がっているイタリア、スペイン、ニューヨークでも比較的早い段階でPCR検査の導入拡大を実施しており、それが上記懸念の通り感染拡大の一因となったと指摘されている。
 
 3月下旬以降東京で第2波、実質的な感染爆発の兆候が表れて以降、検査能力増強を求める主張は格段に大きくなった。一方それに対する反論は、日本医師会およびその構成員である医師たちから出された。日本医師会の公式な方針は、「PCR検査は精度をしっかりと管理した上で、医師が必要と認めたケースについて幅広く行うべき」(4/22)というものである。このような声明が出された背景として、この頃安価な検査キットを外国から輸入して自前で検査を行おうとする業者が出てきていたということがある。そこまで踏まえてみれば、これは安易なPCR検査の実施・拡大を戒める内容であることは明らかである。しかしそこからは逆に医師の側の利権を守ろうという意図も透けて見え、どこまで信用してよいのか分からない。
 
 そもそも、PCR検査実施の利権については騒動の最初期から議論されていた。その時は確か国立の研究機関が検査権限を独占しているために検査能力が低い、という指摘がなされていた。下記URLの厚生労働省ホームページを見ると、今現在日本で本感染症PCR検査を実施しているのは「国立感染研究所」「検疫所」「地方衛生研究所・保健所」「民間検査会社」「大学等」「医療機関」の6分類の施設があるとされている。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000164708_00001.html
https://www.mhlw.go.jp/content/10906000/000630536.pdf
それぞれの検査数を見ると、記載されている2/18以降一貫して地方衛生研究所・保健所の検査数が主要であるものの、4月第2週以降は民間検査会社の検査数がそれに迫る、もしくは上回るように増加している。大学等の検査数もそれに次ぐ勢いである。国・行政の利権を司るのは地方衛生研究所・保健所であるから、この実績は国・行政が検査の利権を保護しようとしているという主張が当たっていないことを示している。医師の側の利権については何も言えないが、前述の通り本検査においては検査精度の高さが決定的な重要性を持つことから、利権云々よりもそちらのほうが優勢されるべきである。
 
 これとは別にもう一つ、一部の医師もしくはマスコミが「検査数を増やすとそれだけ感染者数が増えて医療崩壊をもたらしかねないので反対」という主張を行っている。これは現状明らかになっている感染者に加えてそれよりはるかに多い潜在的感染者が社会にいることを前提としているが、これはおかしい。PCR検査数に対する陽性判明者数の比率、いわゆる陽性率は国内で最も高い数値となった4月中旬の東京都でも30%程度で、選りすぐった患者で検査をしても7割は陰性であったことを考えれば、上記の前提が妥当ではないことが分かる。確かに感染経路不明の新規感染者の数倍程度は未検出感染者が社会に紛れているだろうと考えられるが、それが最も多かった時期でも東京都で100人程度、全国で300人程度であった。さらにその後の収束傾向を見れば、ある日の未検出感染者は後日に感染者として検出・計上されている可能性が高い。そのように考えると国内の累積感染者数は現状判明分より多くて数割増し程度、2倍まで増えることはないだろう。なお、抗体保有者は現状判明分よりはるかに多くいるという主張については別問題である。ワクチン接種によっても感染症の抗体保有者となるが、ワクチン接種者を感染者とはみなさないのと同じことである。
 
 一方の「検査能力を増やすべき」という主張を見ると、そのほとんどは「自分もしくは身近な人物が感染しているかもしれない」という不安に根差したもの、あるはそのような不安を煽るものである。そして、そのような主張は必ずと言っていいほど日本の政権批判を行っている。日本医師会に対して物申している主張はない。言い換えれば、これははじめに政権批判の目的ありきで「検査能力を増やすべき」という主張を行っている。PCR検査数が政争の具に使われているのである。このような主張を私たちが傾聴する必要はない。ただ自分の不安が煽られていることを客観的に認識し、冷静に物事を考えればいい。
 
 では、多くの国民が不安を抱いている点について、国・行政は対策をとらなくてよいのだろうか。具体的には、私たちの不安がなくなるまでPCR検査能力を増強させる必要はないのだろうか。たとえば、自らの主張を通すため社会の恐怖を煽るテロリストに対して国が断固たる対処をしなければならないように。この問いについて考える際には、費用対効果を十分に検討しなければならない。先に書いたようにPCR検査には時間も人的リソースも必要で、容易に増やすことができない。そのうえ無理に増やせば検査の精度が低下し、社会に対して重大な結果をもたらしてしまうという事情もある。「PCR検査能力の増強」という対処には高いコストがかかるうえに大きなリスクも伴うのである。私たちは老後の生活にも不安を感じているが、だからといって「一人当たり1億円ずつ支給してくれ」と要求してもそれは無理な話である。
 
 おまけに、果たしてPCR検査能力を増やせば本当に私たちの不安が解消されるのかも定かではない。不安を解消するためには、PCR検査数はどれくらい必要なのだろうか?今の2倍、あるいは10倍に増やしたところで、マスコミやネット上にあふれる不安を煽る声が消えることはないだろう。「国民の数だけ検査できるように」という極論もすでに挙げられているという。しかしそれでも十分ではないだろう。検査を行った翌日に感染する可能性もあるのだから。だとしたら、全国民が毎日検査をする必要があるのだろうか。そうすれば不安がなくなるのだろうか。
 
 私たちの不安の本質は、PCR検査を受けられないことではない。先が見えないこと、どうすればよいのかが分からないことなのである。しかし感染症の専門家ですらどう知ればよいのか分からない(;「案を持っている」のと「どうすればよいのかが分かる」は区別されなければならない)のだから、国に不安解消の有効な対処ができないのも仕方がない。できることはせいぜい現状で確実な情報を頻繁に公表するくらいである。あとは私たち国民の側がその情報を受け取り、不安を煽る声に惑わされることなく自らの頭で考えることである。そしてそれができることこそ、私たち日本人が世界に対して誇りたい高度に洗練された国民性なのではないかと思う。
 
 以上の考察の結果から、私は先に述べた通り「検査の対象を拡大させてもそのコストに見合う成果は得られず、日本はPCR検査能力を無理に増やす必要はない」という考えに至っている。本質を追求すれば、感染症の蔓延を克服するのに必要なのは分かりやすい数値の日々の変化に一喜一憂することではなく、もちろん政権批判をすることでもなく、私たち国民の一人一人が感染を広めない意識を持って何が大切なのかを考えながら生活を送ることなのである。