多様性の価値(前編) テレビがつまらない

 2010年代はスマホSNSの時代だったと言われている。確かに2010年代が始まる前の2010年を思い出すと、スマホSNSは今ほど社会に普及していなかった。インターネットのユーザーはPCを通じてネットにアクセスしており、ユーザーの層的に、地域的に、あるいは用途的に限られた人々の道具でしかなかった。当時はそんな風には感じていなかったが、こんにちの世界的なスマホSNSの広がりを考えると、当時のインターネットはまだまだちっぽけな存在だったと思わずにはいられない。良くも悪くも社会に与えるそれらの影響が飛躍的に大きくなったのに反比例して影響力を失ったのが、新聞やテレビなど先進国のマスメディアである。思えば私もこの十年紀に自身のスマホを持つようになり、新聞の購読を取りやめた。テレビについても、どうしても視聴したいと思えるような番組が今ではほとんどなくなってしまった。
 
 しかしここで重要なのは、私の場合スマホを(テレビの代替としての)娯楽目的ではほとんど利用していないという点である。つまり新しく手に入れたスマホが娯楽を進化させたのではなく、従来娯楽の主役であったテレビがひとりでに面白くなくなっていったということになる。テレビが面白くなくなったという声はこの十年紀に限らずもっと以前からしばしば聞かれたものであるから、これには私に限らず「スマホに娯楽の主役を奪われたから」というのではないもっと別の理由があるはずだ。
 
 しばしば指摘されるその理由として、テレビ業界が視聴率至上主義に陥っているためだというものがある。確かに視聴率だけで番組の面白さを的確に評価できないというところはある。が、今も昔も視聴率の低さが話題になるような番組は本当に面白くなく、その逆もまたよく当たっている。問題の原因になっているのはむしろテレビ業界が視聴率という結果を適切にフィードバックしていないからだという方が当たっているように思う。ではなぜそうなのかと言えば、視聴率よりも重視される評価要素が存在しているからだというのがその答えである。そしてその評価要素とは、利権とクレームである。利権についてはまあいろいろあるわけだが、クレームも確かにその一要因となっている。
 
 下品なお笑い番組や過激なトーク番組などでも世間で話題になれば視聴率が取れるはずなのに、こんにちそういうものも見られないという事実は、どこかからくるクレームが功を奏している証拠である。あるいは、来るかもしれないクレームに対して放送局側が付度しているのかもしれないが、これは結局同じことである。このようにクレームが過剰な影響力を持ってしまう背景として、その業界における多様性が失われている状況を挙げることができる。多様性が確立されていれば、ユーザー側(テレビ番組で言えば視聴者)はそれぞれのニーズに合わせたサービスを選んで利用することになり、価値観の不一致に基づくクレームに対してはそのニーズに適したサービスを提案することで対処することができる。悪意に基づくクレームに対しては自由に関する権利を振りかざしてもよいだろう。
 
 逆に多様性が失われてくると価値観が画一的となり、ユーザー側だけでなくサービスの提供側も画一的な価値観に縛られるようになる。そのような状況では悪意に基づくクレームヘの対応も困難なものとなり、画一的な価値観が本来重視されるべき価値観(テレビ番組では視聴率)よりも大きな影響力を持ってしまうことさえあり得る。これを突き詰めていけば伝統芸能や宗教になるのかもしれないが、決して健全な状態ではない。グローバルに通用する価値を生み出すことができないからである。対照的に、多様性を持つことで成功しているのがインターネットの文化だろう。大したリソースを持たない個人でも小さなコストで情報発信ができるということで、テレビに代表されるマスメディアが失ってしまった多様な価値観・コンテンツが展開され、消費されている。この状態を健全とするのには異論があるかもしれないが、悪意に基づくクレームに対する耐性が高いことは確かである。
 
 この多様性を英語で言うと「ダイバーシティ」であり、ビジネスの世界ではこちらの言葉の方がよく用いられている。しかしながら、そう言ってしまうと誤解に陥るおそれがある。こんにちビジネスの世界で「ダイバーシティ」という言葉がよく用いられる意味合いは、「女性の社会進出」「LGBTの許容」「他宗教への配慮」である。これらは言い換えると「マイノリティの尊重」であり、多様性の概念に合致する。が、多様性の概念はもっと広い。真の多様性とは、LGBTへの不寛容や他宗教への敵意を許容することである。それらを社会・組織として受け入れ実践するかどうかはともかく、意見や主張の一つとして存在を許容するのである。そのうえで、その意見としての妥当性を合理的に検討し、総体的に判断して扱うのである。多様な意見が出されたとしても、結局のところ組織としての実施方針は一つに集約されなければならない。“静かな”方針統一との違いは、多くの意見を検討したかどうか、採用されなかった意見について他者に説明できる根拠があるかどうかである。それらの存在が、組織全体の舵取りの失敗とそれによる暗礁への乗り上げのリスクを抑制する。
 
 けれども、テレビのつまらなさと多様性の関係はそれとは異なるものである。日本のテレビがつまらなくなったのはそれが画一的な価値観(利権の保護とクレーム件数の軽減)に縛られた停滞状態に陥ったためであり、インターネットにおける多様性の効果は停滞を打ち破ることである。とはいえ、停滞は必ずしも悪いことだと認識されない。それは安定でもあり、作り手側にはむしろ喜ばしい状況である。消費する側から歓迎される向きさえもある。けれどもそれが通用するのは“内部”のみである。加えて、この“内部”はその後縮小するのみで、基本的に拡大することはない。強力な競争相手が出現した場合、急激に縮小することもある。
 
 このように書けば、同じ問題が生じているのはテレビ業界に限らない状況が見えてくる。(後編に続く)