日本のPCR検査に関する主張の考察

 今回の新型コロナウィルス感染症に関して、日本において最も熱い議論となっているテーマの一つがPCR検査である。このテーマに関しては、本感染症が国内で深刻になり始めた2月末からこんにち(5/15)に至るまで形を変えつつも議論が続いている。いや、正しくはそれぞれの利害を持つ者が自らの主張を繰り返している、というべきかもしれない。議論がなされるべき場で適切な議論がなされることなく、マスコミなどを介して主張ばかりが飛び交っている印象で、これでは感染症よりもさらに長く終息しない可能性すらあるだろう。
 
 PCR検査に関する主張の構図はごく簡単である。国内の検査能力を増やすべきなのか、そうではないのか。基本はこの対立軸のみである。けれどもこのシンプルさが災いし、かえって考慮されるべき本質的なところが隠されてしまっているように感じられる。通常「能力を増やすべきか」という形での問題提起に対しては「増やすべき」という答えしかないように思われるが、現時点での私の考えは「無理に増やすべきではない」である。以下、双方の主張の根拠を検討しつつ、私がそのような考えに至った過程を述べていきたいと思う。
 
 まず事実として、本感染症が国内に広がり出した2月の中頃から、日本国内の検査能力は他国と比較して少ないことが指摘されていた。そして初期にはこの点を根拠として国内の検査能力を高めるべしという主張がなされていた。PCR検査とはウィルスの遺伝子に由来する分子(DNAあるいはRNA)を増幅させたのちにそれを検出するものであり、1回の検査に速くて数十分の時間がかかる。さらに検査試料の高度な取り扱いが要求されることもあり、容易に検査能力を高めることはできない。高めるには多くの人的・経済的リソースを投入して少しずつ増やしていくしかない。「短時間で安価に検査できる」という触れ込み・売り込みがしばしば出てくるが、それはまず間違いなく検査精度を犠牲にしたものだとみなしてよいだろう。
 
 「検査能力を高めるべし」という主張に対して、初期には有力な二つの反論があった。一つ目は、この検査精度に関するものである。陽性を陰性と誤る偽陰性が生じると、他者に感染させる能力を持つ感染者に「社会へ出てもよい」というお墨付きを与えてしまうことになり、問題である。しかしさらに深刻なのはその逆の偽陽性で、実際の感染者がほとんどいなかった頃にこの偽陽性者が大量に認定されると医療崩壊が生じるという懸念が提起されていた。この点に関してその後の続報が出てこないのが不思議だが、実際には偽陰性と比べて偽陽性の生じる確率は有意に低かったようである。以前韓国で初期の感染爆発を引き起こした新興宗教団体のソウル支部に対してソウル市当局が数万人規模の強制PCR検査を実施したところ、陽性判定者はわずかに2人だったという。この結果により(情報の発信源である)ソウル市当局は、強制捜査を行ってめぼしい証拠が得られなかった検察などと同様に面目を失ったことを考えると、この結果および報道(;もちろん日本で報道されることはなく、ネットニュースでしか知り得ない話)には信ぴょう性があると考えられる。そしてこの結果は、PCR検査における偽陽性発生率がかなり低いことを示してもいる。
 
 二つ目の反論としては、「検査を受けるために大勢が検査機関に詰めかければ、そこで感染拡大が生じてしまう」というものだった。これも的を射た重要な指摘であるが、韓国がドライブスルー方式の検査を導入してその対策とし、こんにちまでにその有効性が示されている。ドライブスルー方式導入のニュースはこの指摘が出されたよりも後だったので、おそらくは韓国の当局がこの指摘を認識したうえで対策をとったのではないだろうか。だとしたらこれは優秀な対応であり、この点に関しては各国が見習うべきであろう。ちなみに、こんにち感染症が爆発的に広がっているイタリア、スペイン、ニューヨークでも比較的早い段階でPCR検査の導入拡大を実施しており、それが上記懸念の通り感染拡大の一因となったと指摘されている。
 
 3月下旬以降東京で第2波、実質的な感染爆発の兆候が表れて以降、検査能力増強を求める主張は格段に大きくなった。一方それに対する反論は、日本医師会およびその構成員である医師たちから出された。日本医師会の公式な方針は、「PCR検査は精度をしっかりと管理した上で、医師が必要と認めたケースについて幅広く行うべき」(4/22)というものである。このような声明が出された背景として、この頃安価な検査キットを外国から輸入して自前で検査を行おうとする業者が出てきていたということがある。そこまで踏まえてみれば、これは安易なPCR検査の実施・拡大を戒める内容であることは明らかである。しかしそこからは逆に医師の側の利権を守ろうという意図も透けて見え、どこまで信用してよいのか分からない。
 
 そもそも、PCR検査実施の利権については騒動の最初期から議論されていた。その時は確か国立の研究機関が検査権限を独占しているために検査能力が低い、という指摘がなされていた。下記URLの厚生労働省ホームページを見ると、今現在日本で本感染症PCR検査を実施しているのは「国立感染研究所」「検疫所」「地方衛生研究所・保健所」「民間検査会社」「大学等」「医療機関」の6分類の施設があるとされている。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000164708_00001.html
https://www.mhlw.go.jp/content/10906000/000630536.pdf
それぞれの検査数を見ると、記載されている2/18以降一貫して地方衛生研究所・保健所の検査数が主要であるものの、4月第2週以降は民間検査会社の検査数がそれに迫る、もしくは上回るように増加している。大学等の検査数もそれに次ぐ勢いである。国・行政の利権を司るのは地方衛生研究所・保健所であるから、この実績は国・行政が検査の利権を保護しようとしているという主張が当たっていないことを示している。医師の側の利権については何も言えないが、前述の通り本検査においては検査精度の高さが決定的な重要性を持つことから、利権云々よりもそちらのほうが優勢されるべきである。
 
 これとは別にもう一つ、一部の医師もしくはマスコミが「検査数を増やすとそれだけ感染者数が増えて医療崩壊をもたらしかねないので反対」という主張を行っている。これは現状明らかになっている感染者に加えてそれよりはるかに多い潜在的感染者が社会にいることを前提としているが、これはおかしい。PCR検査数に対する陽性判明者数の比率、いわゆる陽性率は国内で最も高い数値となった4月中旬の東京都でも30%程度で、選りすぐった患者で検査をしても7割は陰性であったことを考えれば、上記の前提が妥当ではないことが分かる。確かに感染経路不明の新規感染者の数倍程度は未検出感染者が社会に紛れているだろうと考えられるが、それが最も多かった時期でも東京都で100人程度、全国で300人程度であった。さらにその後の収束傾向を見れば、ある日の未検出感染者は後日に感染者として検出・計上されている可能性が高い。そのように考えると国内の累積感染者数は現状判明分より多くて数割増し程度、2倍まで増えることはないだろう。なお、抗体保有者は現状判明分よりはるかに多くいるという主張については別問題である。ワクチン接種によっても感染症の抗体保有者となるが、ワクチン接種者を感染者とはみなさないのと同じことである。
 
 一方の「検査能力を増やすべき」という主張を見ると、そのほとんどは「自分もしくは身近な人物が感染しているかもしれない」という不安に根差したもの、あるはそのような不安を煽るものである。そして、そのような主張は必ずと言っていいほど日本の政権批判を行っている。日本医師会に対して物申している主張はない。言い換えれば、これははじめに政権批判の目的ありきで「検査能力を増やすべき」という主張を行っている。PCR検査数が政争の具に使われているのである。このような主張を私たちが傾聴する必要はない。ただ自分の不安が煽られていることを客観的に認識し、冷静に物事を考えればいい。
 
 では、多くの国民が不安を抱いている点について、国・行政は対策をとらなくてよいのだろうか。具体的には、私たちの不安がなくなるまでPCR検査能力を増強させる必要はないのだろうか。たとえば、自らの主張を通すため社会の恐怖を煽るテロリストに対して国が断固たる対処をしなければならないように。この問いについて考える際には、費用対効果を十分に検討しなければならない。先に書いたようにPCR検査には時間も人的リソースも必要で、容易に増やすことができない。そのうえ無理に増やせば検査の精度が低下し、社会に対して重大な結果をもたらしてしまうという事情もある。「PCR検査能力の増強」という対処には高いコストがかかるうえに大きなリスクも伴うのである。私たちは老後の生活にも不安を感じているが、だからといって「一人当たり1億円ずつ支給してくれ」と要求してもそれは無理な話である。
 
 おまけに、果たしてPCR検査能力を増やせば本当に私たちの不安が解消されるのかも定かではない。不安を解消するためには、PCR検査数はどれくらい必要なのだろうか?今の2倍、あるいは10倍に増やしたところで、マスコミやネット上にあふれる不安を煽る声が消えることはないだろう。「国民の数だけ検査できるように」という極論もすでに挙げられているという。しかしそれでも十分ではないだろう。検査を行った翌日に感染する可能性もあるのだから。だとしたら、全国民が毎日検査をする必要があるのだろうか。そうすれば不安がなくなるのだろうか。
 
 私たちの不安の本質は、PCR検査を受けられないことではない。先が見えないこと、どうすればよいのかが分からないことなのである。しかし感染症の専門家ですらどう知ればよいのか分からない(;「案を持っている」のと「どうすればよいのかが分かる」は区別されなければならない)のだから、国に不安解消の有効な対処ができないのも仕方がない。できることはせいぜい現状で確実な情報を頻繁に公表するくらいである。あとは私たち国民の側がその情報を受け取り、不安を煽る声に惑わされることなく自らの頭で考えることである。そしてそれができることこそ、私たち日本人が世界に対して誇りたい高度に洗練された国民性なのではないかと思う。
 
 以上の考察の結果から、私は先に述べた通り「検査の対象を拡大させてもそのコストに見合う成果は得られず、日本はPCR検査能力を無理に増やす必要はない」という考えに至っている。本質を追求すれば、感染症の蔓延を克服するのに必要なのは分かりやすい数値の日々の変化に一喜一憂することではなく、もちろん政権批判をすることでもなく、私たち国民の一人一人が感染を広めない意識を持って何が大切なのかを考えながら生活を送ることなのである。

新型コロナウィルス感染症の謎:追記Ⅰ

 先週書いた新型コロナウィルス感染症の謎について、手掛かりになるかもしれない情報が出てきた。アメリカを中心に、国民の中で本ウィルスの抗体を保有する人の比率を調査しようという動きが出てきている。アメリカのある都市では、市民の30%がすでに抗体を持っていたという調査結果が報告されているらしい。抗体を持つ人間はこの感染症に対して免疫を持つことを意味しており、ウィルスにさらされても感染を免れることができる。このように人口の大部分に抗体を持たせることで感染症の拡大を防ぐ戦略を「集団免疫」と呼ぶ。アメリカや日本の当局および関係者がこの点に関心を持つのは、この集団免疫との関連を暗に考えてのことである。
 
 けれども、これは戦術的には正しくない。集団免疫とは本来国民に対する半強制的な予防接種を前提とするものであり、それなくして国民の大部分を疾病の原因であるウィルスに感染させることはあり得ない。それは感染症に対する医療の無条件降伏であり、冷静な人間が考えるべき戦術ではない。不安や恐怖のあまりパニックになった人間がすがるタイプの戦術であるが、実際のところその実施に要する期間は意外と長く、その間は想像を絶する阿鼻叫喚の状況が続くことになる。今の状況で集団免疫を主張するような人間が耐えられる状況ではない。したがって本ウィルスに有効なワクチンが存在しない現時点において全人口における抗体保有率を議論する意義は大きくない。
 
 とはいえ、もし上記の調査結果が正しく、さらにその結果が示唆するところ、欧米の感染拡大地域において全人口の数%に相当する感染者の10倍の抗体保有者がいるとすると、それは前回書いた“謎”の回答として状況をよく説明するのである。すなわち、抗体保有者を感染者と同等とみなすことで感染者の比率は都市人口の数十%、半数前後となり、感染者の増加ははっきりとした鈍化傾向を示すようになる。それはこのところイタリア、スペイン、それにニューヨークといった感染拡大地域で見られている傾向と同じようなものになると推測される。そして抗体保有者は感染者としては認知されないため、感染者は高々人口の数%、検出能力の限界もあって1%程度しかいないように見えるだろう。
 
 こう書くと、「感染者と認知されない抗体保有者」というのは当初から存在が指摘されている無症状感染者のことであると解釈されやすいだろうが、私はそうではないと思う。そうだとすると無症状の感染者が症状のある感染者の10倍程度いることになってしまうが、そうなると症状のある感染者が特殊な存在だということになり、顕著な特徴・傾向が顕れてくるだろう。アメリカでは黒人とヒスパニックの貧困層で感染率が高い傾向が見られているが、それが答えだとしたらもっとはっきり出てくるはずである。トランプ大統領をはじめとする白人がこの感染症の存在を重視しなくなるほどに。
 
 実際はそうではなく、あるとしたらそれは「抗体保有者は非感染者であって感染者とは完全に別物」ということだと思われる。たとえば、ワクチン接種者は抗体保有者であり感染者とは完全に別物の非感染者である。もちろん現時点で新型コロナウィルスの有効なワクチンは世界のどこにも存在しないのでワクチン接種者も存在しているはずがない。けれども、ごく微量のウィルスにさらされた者は感染することなく抗体のみを獲得できるということはないだろうか。かつてジェンナーが種痘(無毒化・弱毒化されたウィルスによるワクチン)を開発する以前には、天然痘ウィルス自体を薄めて予防接種に用いていたという。今回それがたまたま実現されていた可能性はあるのではないか。
 
 知っての通り、新型コロナウィルス感染者と濃厚接触した者はそれにより感染するリスクが高い。ここでいう濃厚接触とは、咳や発話により主として口から放出されるウィルスを含んだ飛沫やエアロゾルを体内に吸引し得る行為、およびその飛沫等が手や食物を経由して体内に侵入し得る行為である。この場合、多数のウィルスが一度に体内に侵入するため、接触者はウィルスの感染を免れられない。これに対して、そのような領域に短時間滞在して少量のエアロゾルを吸引するような場合、体内に侵入するウィルスの数はごく少数である。が、ゼロではない。このようなとき、免疫が弱っていなければ、あるいは運が悪くなければ、感染に至ることなく体内の免疫機構が新型コロナウィルスの抗体を獲得するのではないか。だとすると、市中に感染者が一定比率以上にあふれる状況で急激に非感染・免疫獲得者が急増して感染者の増加が鈍化する現象をうまく説明できるのである。
 
 日本では感染者の最も多い東京都でさえもそのような状況に至るはるか前の段階にあると考えられ、すでに1か月近く不要不急の外出自粛努力を続けているにもかかわらず限定的な効果しか見られていない。けれども、満員の通勤電車に乗る機会の多い東京都民の多くは実はすでに新型コロナウィルスの抗体を獲得しているのかもしれない。インフルエンザについて考えると、私たち都市居住者は年に何度も少数のインフルエンザウィルスにさらされているはずだが、特に予防接種を受けなくても一度もインフルエンザに罹患しない者が大多数である。このアイデアは主張ではなく希望的憶測に過ぎないが、特に感染者の同居人で未感染だった者への抗体検査を行ってその可能性の是非を追求してほしいところである。

新型コロナウィルス感染症の謎

 今年の1月中旬あたりから世界的なニュースとして騒がれ出した新型コロナウィルス感染症、2月までは「ダイヤモンドプリンセス号」の名前とともに話されることが多かったものの、3月には欧州で感染爆発し、4月に入って以降はアメリカ(USA)がそれを上回る勢いの感染爆発状態となり、今では世界中のニュースを独占してしまっている感がある。日本では3月下旬以降特に首都圏で感染者が急増しはじめ、現在に至っている。ネットやマスコミでは様々な意見や主張が飛び交っているが、そのほとんどは不安感・恐れなどの感情から来る冷静さを欠いたものである。政治や行政への不満、社会への不満や怒りの吐露などは大抵その類であり、いわゆるヘイト・スピーチと大して変わらない。本件に関して冷静な人々にとっての最大の関心は、この感染爆発状態が果たしていつまで続くのか、であろう。経済的な損失や社会的な悪影響(学校閉鎖による学力低下など)に関する議論でも、結局はこの状態がいつまで続くのかが分からない限り有意義な結論を出すことができないのだから。他者への怒りに基づく感情論は聞き手側の不安感を煽るだけであるのに対して、冷静で論理的な考察は逆に聞き手側の不安感を抑制する効果があると信じ、私は以下の考察を文章として記すつもりである。
 
 現在私が感じている本件に関する最大の謎は、これまでに世界中の都市で発生している感染爆発がしばらくたつと収束に向かう点である。そもそもの感染爆発発祥の地である武漢では、すでに3月上旬あたりから新たな感染者がほとんど出ていない状況にあるという。これについては各方面から「信用できない」との指摘が挙げられており、実際中国の当局も「特定症状の出ている患者を感染者として扱う」=「無症状の感染者は計上されない」とかなり早い段階で公言していた。したがって実際の感染者数が公式発表の人数より多いことは間違いない。けれども、武漢市における感染者が公式発表のおよそ8万人より一桁も二桁も多いとは考えにくい。それならば武漢市民がネット上で騒ぎだし、当局の監視を逃れて何らかの情報が国外に漏れてくるはずだが、そのような話は耳にしない。せいぜい「用意されていた骨壺が公式発表より2倍程度多い」という情報くらいである。感染者数・死亡者数ともにすでに中国を上回っているイタリア・スペイン両国においても、感染者の増加は鈍化している。収束に向かっていると言える状況ではないものの、新規の感染者や死亡者の数には先週(4月上旬)あたりから減少している。もっともこの両国に関して「当局や医療機関の限界により正確なカウントができなくなっている」との情報もあるが、やはり一桁も二桁も少なくカウントされている状況だとは考えにくい。
 
 そもそもウィルス性の感染症が感染爆発を起こした場合、感染爆発が終息するパターンは多くない。理屈で最も考えやすいのは、人口の大半が感染してしまうパターンである。しかし、考えやすさに反して実際にこのパターンが実現された例は歴史上ほとんどない。おそらくこれに最も近い例が今からおよそ100年前に流行したスペイン風邪だろうが、それでも「人口の大半が感染」というところまではいっていない。
http://www.tokyo-eiken.go.jp/sage/sage2005/
上記資料によれば、感染者数は世界で6億人、日本で2千万人とのことで、日本で見ても高々人口(5.5千万人)の半分程度である。したがってしばしば耳にする「全員感染することで終息させよう」という主張は非現実的な机上の空論である。
 
 現時点(4/18)での情報では、イタリア・スペインとも感染者数は公式発表でおよそ18万人、実態はそれより多いとしても30万人まではいかないだろう。イタリアの人口はおよそ6千万人、感染者が集中する北部に限定して考えても、現時点での感染者数は人口全体の高々1%程度なのである。中国・武漢にしても、全人口は1千万人、たいして公式の感染者数は10万人に満たない。どちらも「全員感染」という状況からは程遠い。にもかかわらず、中国やイタリアにおける累積感染者数の推移はあたかも人口の大部分が感染してしまったかのような挙動を示しているのである。これこそが上記の「謎」の核心である。ちなみに日本の東京では、23区の人口がおよそ1千万人に対して感染者は3千人に届かないくらい。感染率はまだはるかに低いが、数学的にはどちらも指数関数的な感染者の伸びが予想される段階である。
 
 ただしそれは何らの対策もなされなかった場合の話であり、実際の感染者の増加がそれより低いのは実施された対策の効果の顕れである、という解釈もできる。マスコミや当局は大々的にはそう言わないものの、専門家も含めて多くは内心そう考えているのではないかと思う。しかしその場合、何らかの痕跡が見て取れるはずである。例えば東京では、3月末からから月曜日の前後に新規の感染者数が減少し、水曜日から週末にかけて増加する傾向がある。これはおそらく、その前の週末に感染する人数が減少し、それが8日前後のタイムラグで新規感染者の数に顕れてきているものだと推測される。感染から発症までに平均4~5日、検査待ちで2~3日、さらに結果が出て計上されるまでに1日で8日前後と考えれば、タイムラグの日数も妥当である。3月の第4週から4月第2週まで新規感染者が線形に増加してきたのが4月第3週に横ばいに転じたように見える(4/11土にそれまでで最大の197人となって以降、翌週4/18土までにそれを上回る感染者を出したのは1日のみである)のは、4月第2週に出された緊急事態宣言が社会に与えた影響によるものだとも解釈できる。
 
 とはいえ、実感としてその効果はとても頼りなげで弱々しい。すぐにまた増加の傾向に転じてしまいそうである。中国や欧米と違って東京ではロックダウン(都市閉鎖)をしていないからだという主張があるだろうが、私はそうは思わない。「ロックダウン」などと言葉は重々しいが、イタリアでも武漢でも住民は食料品の買い出しには行けるのだし、食料品等生活必需品の輸送や生産、加えてごみ収集も滞りなく行われているのである。実態をよく見れば、大多数のまじめな東京都民の生活と大きくは変わっていない。ロックダウンをすべきだという主張は、不安感によって隣の芝生が過剰に青く見えているか、力強そうな何かにすがりたいだけ、もしくは単に日本政府・行政を批判したい勢力が唱えているものだと思う。冷静な論調と論拠をもって東京のロックダウンを訴える主張を私はまだ聞いたことがない。
 
 それと比べて、武漢やイタリア、スペインの感染者数増加の収束傾向はまさに“傾向”と呼べるものであり、力強さを感じさせる。未感染者数の減少によって生じる傾向に見える。とすると、感染者/未感染者の他に相当数の「免疫保有者」が存在しているのではないか、という仮説が考えられる。免疫に関してはBCGワクチン日本株の有効性の可能性がすでに指摘されているが、これはあるとしても感染者に対する死亡率低減効果であり、今考えている感染に対する免疫効果の可能性は指摘されていない。やはり指摘されている基礎疾患(持病)の影響についても同様である。その他人種や性別などの先天的な要素についても指摘がなされているが、上記のような顕著な効果を示すものではないだろう。
 
 免疫とは逆の発想で、通常よりも感染しやすい人間がいる、という仮説はどうだろう。その比率が全人口に対して1%程度だとすれば、そのグループの大部分が感染した時点で感染者の増加は収束の傾向を示すことになる。東京(23区)の感染者の比率はまだ0.03%程度であり、自発的な収束傾向が見えてくるのはまだまだ先、それまでは弱々しい効果を追求する努力の日々が続くことになる。3月初めころだったか、新型コロナウィルス感染症に関するある調査結果が報告された。それは、感染者の大部分は誰にも感染させることなく感染者として認定・隔離されており、それ以外の少数の感染者が多くの人に感染させている、というものである。これはいわゆる「スーパースプレッダー」というやつだ。今ではもう感染経路不明の感染者が多すぎてこの傾向がどうなっているかを確認できないが、特定施設内で短期間にクラスター感染が発生するのはこの指摘の妥当性を示している。この「スーパースプレッダー」予備軍が人口比で1%程度存在しており、彼らの大部分が感染判明・隔離された時点で感染者の増加が収束に向かう、というのはどうだろうか。うーん、惜しいがもう一つ足りない。そのためには、スーパースプレッダー予備軍が一般人と比べて著しく感染しやすい性質を持っていなくてはならない。
 
 だが、いいところまでは来ている。スーパースプレッダー予備軍は、特殊な体質を持つ者たちではない。それは不特定多数の人間と頻繁に会話をする者たちである。私は日ごろ、家族と職場の数名の決まりきった人々としか会話をしない。店に買い物や外食に出かけても、店員と会話をすることさえほとんどない。たいていの人もおそらく私と変わらないだろう。程度の差はあるとしても。けれども、そうでない者たちが確かにいる。バーや居酒屋で初対面の相手と楽しく会話をし、休日には趣味の集まりやパーティではなり楽しく会話をする。彼らの多くはまた多く人と接する職業に就く。いわゆる「陽キャ」である。陽キャ陽キャを好み、陰キャと交わる機会は多くない。逆に陰キャ陰キャ同士で集まり、その日常に陽キャが絡んでくることは少ない。もし陽キャの群れにインクを一滴たらしたならば、たちまちのうちに社会の中の陽キャがインクで染められていくだろう。周囲の陰キャも少しは染められるだろうが、その先へは浸透しない。人間同士の密接なつながりがないからである。社会の中の陽キャが色で染められ尽くしてくると、感染速度に明らかな違いが生じることになる。まあ個人的な陽キャに対するやっかみも含まれているが、人との会話が重要な感染リスク要素だと明らかになっている以上、陽キャ陰キャの違いが感染しやすさ&させやすさに影響しないということは考えにくい。
 
 このような社会構造は日本特有のものだと考えられがちだが、実は中国でもヨーロッパでも大して変わらず、大人の陽キャは全人口のうち1%程度しかいない、ということではないだろうか。感染者の多いイタリアやスペインはいわゆるラテン気質で陽気な国民性だとされているが、実際のラテン人(古代ローマを建国した)はまじめな人たちだとも言われている。イタリア北部は歴史的にも職人の多い土地である。実はイギリス人やドイツ人とあまり違わないのだろうか。なお、アメリカでは少し事情が違うようである。特に多く感染者を出しているニューヨーク市では、貧しい黒人やヒスパニックに感染者が多く、豊かな白人には少ないという。アメリカでは貧しい人々は互助組織を作って交流を深めるため、個人の性格に関わらず感染が拡大しているようである。
 
 今の状況がこれから先どれくらい続くのか。「収束」については専門家や各国当局の予想よりも早く来るのではないかと思う。理由は上記のとおりである。けれども「終息」については、早期達成の見込みはごく小さいだろう。仮に日本も台湾のようにうまくやれたとしても、かかわりの深い諸外国のすべてが同様に感染を抑え込むまでは感染者の根絶が難しいからである。マスコミや世間の発する不安を煽る声に囚われることなく、無理のない長期戦の構えで辛抱強く冷静にこの困難と向き合うことが最終的に良い結果をもたらすのではないかと思っている。

多様性の価値(後編) 日本の製造業復興のKSF

(前編からの続き)
 テレビに代表される先進国のマスメディアがつまらなくなったのは、画一化された価値観に縛られて停滞状態に陥っているためである。けれどもそれはマスメディアに限った話ではない。日本人は比較的安定を好む保守的な民族であるが、生活スタイルにおいても産業においても長く“外部”の競争相手が不在であったために安定志向が強まり、慢性的な停滞状態に陥っている。そのためそれらは外部である外国にはあまり受け入れられず、逆に内部である国内市場が力を付けた海外勢によって駆逐される事態が様々な分野で見られるようになってきた。それでも安定志向を捨てなかった日本の製造業界は、外部に受け入れられづらいエンドユーザー向けの製品群を切り捨てて、より安定した需要が見込める部品・原材料の製品群に退避しているように見える。
 
 この状況はまた別の側面から見ることもできる。性能・品質の側面である。日本企業が得意としてきた「性能・品質」は、突き詰めれば一つ(ないし少数)の数値である。数値の大小によってその優劣が誰にでも簡単に判定できる。こんにちではそれらを「KPI」(Key performance indicator)と呼ぶ。製造業界では開発目標の一つとして有効なKPIを見つけることが要求される。KPIで示される性能・品質は、エンドユーザー向けの製品よりも部品・原材料において大きくものをいう。それゆえに日本企業の多くが部品・原材料の製品群に逃避したのだ。
 
 しかしこれまではノウハウの蓄積により性能・品質の良さを開発できていたそれらの分野においても、今後は資金力と開発力を得た中国企業にシェアを奪われていくことだろう。一般に川上の製品群(部品・原材料)よりも川下の製品群(エンドユーザーに近い製品群)の方が単価・利益率ともに高い。川下の製品群を押さえた企業が大きな利益を得、巨額の投資を行うことができる。部品・原材料(のサプライヤー)に不満があれば、かれらはその内製化を決意し、そのための投資を行うだろう。投資の主体となる資金・インフラ・人材のいずれのリソースを見ても、日本の企業が誇ってきた優位性は今急速に失われつつある。インフラと人材については、優位性が失われたとしてもこれまでの蓄積によって諸外国と対等以上に渡り合っていけるだろう。しかし資金については、すでに新興工業国から大きく突き放されているのが現状である。性能・品質の見劣りしない部品・原材料を内製化するのは容易ではないかもしれないが、達成は時間の問題であろう。この劣勢を挽回するには、大きな利益を得られる川下の製品群で勝ちを取らなければならない。
 
 日本企業は自社製品の性能・品質を高めて優位性とし、世界の市場に売り込む戦略をとってきた。けれどもその戦略が新興国のみならず国内市場ですら有効ではなくなったことが、この十年紀に明白になったとして記録されるべきであろう。選択肢が増えれば、消費者は作り手が想定していなかった用途・価値を重視することもある。それを敏感に見出した者、あるいは先回りしてうまく仕掛けることに成功した者が川下の市場でシェアを取ることになる。既存製品の市場、それに川上の製造業者はそうした成功者に振り回されるばかりの運命である。それまで価値の源泉であった性能・品質が、想定外の新たな用途においても通用するとは限らない。
 
 既存の市場を破壊する、いわゆる破壊的イノベーションは、シーズではなくニーズに由来して生じる。この十年紀に生じた最も典型的な事例が、デジタルカメラの市場に生じた激変だろう。10年前まで、人はデジタル写真を撮るためにデジタルカメラを利用していた。その主たる用途は光景や状態の“記録”であった。店頭に並ぶ新しいデジカメたちは、画素数の多さや望遠倍率の大きさといった性能を買い手に対して訴えていた。しかしこの10年で、デジタル写真の主たる役割はSNSによる情報の共有・発信ヘと変化した。その結果カメラはスマホに内蔵されることが必須となり、“孤立したデジタルカメラ”の市場は崩壊した。今にして思えば、個人的な記録のニーズは情報の共有・発信というニーズに包含される下位互換のものであった。
 
 10年前すでにその兆候はあったものの、性能的に携帯電話のCMOS撮像素子はデジカメのCCDを超えられないから安泰だと言われていた。けれども、情報の共有・発信というニーズにおいて過度の性能は求められていなかったのである。ちなみにこんにちでは求めに応じて徐々に技術が進歩した結果、CMOS撮像素子が何の遜色もないデジタル写真を撮影しており、デジタルカメラは市場から駆逐されてしまった。スマホSNSは特別な技術的ブレークスルーによって世に生み出されたのではない。潜在的に存在していたニーズと技術が適切に組み合わされた結果として世に広まったのだ。作り手側がこのようなイノベーションを乗りこなすには、組織が潜在的なニーズと技術、すなわち多様性の価値観を重視する環境が不可欠なのだと思う。日本の製造業復興のKSFは、多様性の中に隠されている。
 
 思うに、KPIこそが多様性の価値観に真っ向から対立する価値観なのではないか。KPIとはすなわち画一的価値観の表象である。それは性能を見極める眼を与えてくれる代償として、それ以外の価値を見抜く感受性を奪ってしまう。KPIを疑い、KPIをうち捨ててしまえ。そのうえで外に出て、世の中を見てみよう。お薦めはバンコクやホンコンの繁華街なのだが、それが無理ならば東京のアキバやアメ横商店街でもいい。そういうところにいくらでもある商店をのぞいてほしい。多種多様なガラクタが売られている。日本人の多くはそれらを「ガラクタ」と呼ぶ。けれども、それらをほしいと感じて買う人々がいる。だからこそそこにある商店は存続し、今日も多種多様なガラクタを売っているのだ。画一的な価値観に縛られた感性では理解できない世界がそこに広がっている。多様性の本質は理屈ではない。感情・衝動なのだ。ダイバーシティについて小難しく考えるところから入るのも結構ではあるが、もっと分かりやすいところから入って多様性の本質を肌で理解するのもありだと思う。

多様性の価値(前編) テレビがつまらない

 2010年代はスマホSNSの時代だったと言われている。確かに2010年代が始まる前の2010年を思い出すと、スマホSNSは今ほど社会に普及していなかった。インターネットのユーザーはPCを通じてネットにアクセスしており、ユーザーの層的に、地域的に、あるいは用途的に限られた人々の道具でしかなかった。当時はそんな風には感じていなかったが、こんにちの世界的なスマホSNSの広がりを考えると、当時のインターネットはまだまだちっぽけな存在だったと思わずにはいられない。良くも悪くも社会に与えるそれらの影響が飛躍的に大きくなったのに反比例して影響力を失ったのが、新聞やテレビなど先進国のマスメディアである。思えば私もこの十年紀に自身のスマホを持つようになり、新聞の購読を取りやめた。テレビについても、どうしても視聴したいと思えるような番組が今ではほとんどなくなってしまった。
 
 しかしここで重要なのは、私の場合スマホを(テレビの代替としての)娯楽目的ではほとんど利用していないという点である。つまり新しく手に入れたスマホが娯楽を進化させたのではなく、従来娯楽の主役であったテレビがひとりでに面白くなくなっていったということになる。テレビが面白くなくなったという声はこの十年紀に限らずもっと以前からしばしば聞かれたものであるから、これには私に限らず「スマホに娯楽の主役を奪われたから」というのではないもっと別の理由があるはずだ。
 
 しばしば指摘されるその理由として、テレビ業界が視聴率至上主義に陥っているためだというものがある。確かに視聴率だけで番組の面白さを的確に評価できないというところはある。が、今も昔も視聴率の低さが話題になるような番組は本当に面白くなく、その逆もまたよく当たっている。問題の原因になっているのはむしろテレビ業界が視聴率という結果を適切にフィードバックしていないからだという方が当たっているように思う。ではなぜそうなのかと言えば、視聴率よりも重視される評価要素が存在しているからだというのがその答えである。そしてその評価要素とは、利権とクレームである。利権についてはまあいろいろあるわけだが、クレームも確かにその一要因となっている。
 
 下品なお笑い番組や過激なトーク番組などでも世間で話題になれば視聴率が取れるはずなのに、こんにちそういうものも見られないという事実は、どこかからくるクレームが功を奏している証拠である。あるいは、来るかもしれないクレームに対して放送局側が付度しているのかもしれないが、これは結局同じことである。このようにクレームが過剰な影響力を持ってしまう背景として、その業界における多様性が失われている状況を挙げることができる。多様性が確立されていれば、ユーザー側(テレビ番組で言えば視聴者)はそれぞれのニーズに合わせたサービスを選んで利用することになり、価値観の不一致に基づくクレームに対してはそのニーズに適したサービスを提案することで対処することができる。悪意に基づくクレームに対しては自由に関する権利を振りかざしてもよいだろう。
 
 逆に多様性が失われてくると価値観が画一的となり、ユーザー側だけでなくサービスの提供側も画一的な価値観に縛られるようになる。そのような状況では悪意に基づくクレームヘの対応も困難なものとなり、画一的な価値観が本来重視されるべき価値観(テレビ番組では視聴率)よりも大きな影響力を持ってしまうことさえあり得る。これを突き詰めていけば伝統芸能や宗教になるのかもしれないが、決して健全な状態ではない。グローバルに通用する価値を生み出すことができないからである。対照的に、多様性を持つことで成功しているのがインターネットの文化だろう。大したリソースを持たない個人でも小さなコストで情報発信ができるということで、テレビに代表されるマスメディアが失ってしまった多様な価値観・コンテンツが展開され、消費されている。この状態を健全とするのには異論があるかもしれないが、悪意に基づくクレームに対する耐性が高いことは確かである。
 
 この多様性を英語で言うと「ダイバーシティ」であり、ビジネスの世界ではこちらの言葉の方がよく用いられている。しかしながら、そう言ってしまうと誤解に陥るおそれがある。こんにちビジネスの世界で「ダイバーシティ」という言葉がよく用いられる意味合いは、「女性の社会進出」「LGBTの許容」「他宗教への配慮」である。これらは言い換えると「マイノリティの尊重」であり、多様性の概念に合致する。が、多様性の概念はもっと広い。真の多様性とは、LGBTへの不寛容や他宗教への敵意を許容することである。それらを社会・組織として受け入れ実践するかどうかはともかく、意見や主張の一つとして存在を許容するのである。そのうえで、その意見としての妥当性を合理的に検討し、総体的に判断して扱うのである。多様な意見が出されたとしても、結局のところ組織としての実施方針は一つに集約されなければならない。“静かな”方針統一との違いは、多くの意見を検討したかどうか、採用されなかった意見について他者に説明できる根拠があるかどうかである。それらの存在が、組織全体の舵取りの失敗とそれによる暗礁への乗り上げのリスクを抑制する。
 
 けれども、テレビのつまらなさと多様性の関係はそれとは異なるものである。日本のテレビがつまらなくなったのはそれが画一的な価値観(利権の保護とクレーム件数の軽減)に縛られた停滞状態に陥ったためであり、インターネットにおける多様性の効果は停滞を打ち破ることである。とはいえ、停滞は必ずしも悪いことだと認識されない。それは安定でもあり、作り手側にはむしろ喜ばしい状況である。消費する側から歓迎される向きさえもある。けれどもそれが通用するのは“内部”のみである。加えて、この“内部”はその後縮小するのみで、基本的に拡大することはない。強力な競争相手が出現した場合、急激に縮小することもある。
 
 このように書けば、同じ問題が生じているのはテレビ業界に限らない状況が見えてくる。(後編に続く)

韓国の野望・後編

(前編からの続き)
 今回の韓国政府による「GSOMIA破棄断念の決断」により、「南北朝鮮の統一」という文大統領の野望は達成がかなり困難になった。この決断はアメリカとの同盟関係の重要性を韓国国民に再認識させる結果となり、今後再びこれを破棄すると言い出せば国民の支持を大いに損なう結果を招く。普通に考えれば、上記野望の成就を最優先に考えてGSOMIAの破棄を断行するところである。日本政府からの援護射撃(詳細はどうでもいいからとにかく強硬な態度)もあり、自国民の多くがGSOMIAの破棄を支持している。ルビコン川を渡るには絶好のコンディションである。彼はなぜそうしなかったか、を考えるよりは、今回の決断を直接的に引き出したとされる“アメリカの警告”が何であったかを考えるほうがおもしろい。
 
 8月末の「GSOMIA破棄宣言」以降、アメリカの政府関係者と軍関係者が何人も韓国を訪れ、韓国政府に翻意を迫ってきた。アメリカ政府は韓国のGSOMIA破棄をその自由主義勢力からの離脱の意思表明と捉え、それを許さないという立場でいたことは明らかである。先に書いたように日本政府が消極的な姿勢であるのに対して、アメリカがこれほど積極的なのはなぜか。「朝鮮戦争で韓国のために犠牲となった十万人のアメリカ兵のため」という主張があるが、私はそれに説得力を感じない。アメリカは東アジア諸国のようにメンツを重視せず、徹底した合理主義を貫いている。先行投資の損切ができずその未練によって国のかじ取りを誤ったのは第二次大戦前の日本であり、アメリカはその危険性を歴史からよく学び取っているはずだ。
 
 日本とアメリカのもう一つの違いは、戦争による国際問題の解決を許容するかどうかである。憲法がそれを許容しない日本にとって韓国の価値は防波堤に過ぎないが、その可能性が常に検討されているアメリカにとって韓国の価値は橋頭保、すなわち前線基地である。空軍と海軍の基地としては日本で事足りるが、陸軍の基地としてはどうしても韓国が必要になる。軍事という観点から見ると、日本海の存在はたいていの日本人が考えているよりもはるかに大きい。当面の仮想敵国は北朝鮮だろうが、中国における軍部の暴走という事態も十分に想定し得る。アメリカはこのように考え、韓国との同盟関係破棄につながりかねないGSOMIA破棄決定の撤回に積極的であったのだろう。
 
 ここで本題に戻り、アメリカはどのように警告して韓国と文大統領の決断を撤回させたのだろうか。韓国人の感覚として、被害者の立場は強い。被害者の主張は常に加害者のそれよりも正しく、それが強者によって認めてもらえるものと考えている。被害者はもちろん常に自分、加害者は通常日本もしくは韓国政府、そして“強者”はアメリカだったり国連だったり中国だったりする。しかしそのアメリカを加害者としてとらえる場合、アメリカは“強者”ではなくなり、正しくも強くもないとみなすようになる。この辺り、日本人にはなかなか理解できないが、下手に理解しようと思わない方がよい。自然科学と同じで、まずは客観的に観察してその結果を受け入れることが重要だ。したがってアメリカが経済的もしくは軍事的に韓国に脅しをかけた場合、韓国側は自分たちが被害者、アメリカが加害者と考えるようになり、全面的に反発・反抗するだろう。おそらくこれまでの2,3か月でアメリカはそれを行っており、期待した効果が得られないことを確認している。
 
 韓国人には、恥とか誇りとか、強いとか弱いとかいう他国では当たり前の概念が通用しない。韓国にもそれらはあるのかもしれないが、日本で考えられている概念とは相当に異質なものである。その中で私が見出したのは、先述した被害者と加害者の関係性が非常に高い優先度を持っているという事実である。日本では「真実=正しい」「うそ=悪い」であり、真実が尊ばれ嘘が忌避されるが、韓国ではこの図式が「被害者=正しい」「加害者=悪い」に置き換わる。そして相対的に真実と嘘の重要性が低下する。「韓国人は平気でうそをつき、真実を顧みない」と言って日本人は怒るのに対して、韓国人は「日本人は平気で加害者の主張を展開し、被害者の主張を顧みない」と言って怒っている。
 
 このように考えると、韓国人の実態が少し見えてくる。であるならば、韓国人は自らを加害者=悪者だと認めることが耐えがたく恐ろしいということになる。事実、彼らはベトナム戦争で韓国人兵士が行ったとされる非人道行為、すなわち非戦闘員の虐殺・レイプの実態に向き合うことができないでいる。だが、韓国人に「自ら認めさせる」というのは容易ではない。彼らにとって嘘への罪悪感は弱く、あえて嘘を信じることにより自認は容易に回避することができる。
 
 そこでアメリカは、「アメリカとの同盟関係が破棄された場合、アメリカは竹島を占拠している韓国人を排除する」と警告したのではないかと思う。韓国軍による竹島の占拠はあちらのテレビで何度も流れている事実であり、さすがの韓国人もこの事実を嘘で否定することはできない。普段は「竹島(独島)は歴史的に韓国の領土」と信じることで問題視せずに済ましているが、この件について第三者にして“強者”でもあるアメリカに軍事力をもってそれをはっきり分かる形で否定されれば、そうも言っていられなくなる。その場合、韓国人の多くは自分たちを被害者、アメリカを加害者ととらえ、やはり自らの“正しさ”の認識を保つことができるかもしれない。しかし政府関係者をはじめとする少なくない韓国人が「国際法的には竹島は日本の領土であり、これまで韓国軍がそれを不法に占拠している」という事実を認識している。だからこそこの件についてハーグの国際司法裁判所への出廷を拒否しているのであり、「済州島は歴史的に韓国の領土」とは言わずに「独島は歴史的に韓国の領土」と主張する。実はこの点は彼らにとって精神的な弱点であり、被害者で正しいはずの自分たちが悪い加害者の立場に転落する不安・恐怖を払しょくするために、執拗に日本に対して“承諾”を求めてくるのである。当然アメリカの上層部はこの点を認識しているはずで、彼らに受け入れがたい恐怖をもたらす切り札として突き付けたのではないかと想像する。逆に言えば、それ以外にGSOMIA破棄を撤回させるという奇跡の交渉結果をもたらすカードが私には想像できない。
 
 今の韓国国内が分裂状態にあることは間違いない。文大統領はいわゆる従北派であり、今ではその同志が政府や軍の上層部に入り込んでいるという。対する保守派はアメリカとの同盟関係を重視しており、日本政府以上にGSOMIA破棄の撤回を求めていたはずである。今回の直前に多くないとはいえ高純度フッ化水素の輸出許可を日本政府(経済産業省)が認めたというニュースがあった。このご時世、両国ともマスコミ発のニュースは信用できないが、これが本当だとすれば、おそらくそれは韓国内部の保守派への援護射撃だと解釈すべきだろう。彼らが国民世論をまとめられれば、現政権を倒して再び韓国を“潜在的な友好国”に戻すことができるかもしれない。ところで、いくら反日が国のアイデンティティにまで昇華しているとはいえ、国民の半分が自由主義陣営の立ち位置/アメリカとの同盟国の立場を捨ててでも反日に酔いたいと考えるだろうか?最後にこの点について考察してみたい。
 
 現在に通じる韓国の反日意識の起源は、第二次大戦後の軍事独裁政権が国内をまとめるために広めたものだと言われている。アジアの独裁政権はその直前の権力体制を徹底的に否定するものなので、この主張の信ぴょう性は高い。もちろんその前の併合時代には独立の欲求があっただろうし、それ以前にも様々な恨があっただろうが、それらは今の反日意識とは毛色の異なるものである。この軍事独裁政権も激高しやすい国民に対していろいろと苛烈な弾圧を加えていたわけだが、そんな忌まわしい支配者から与えられる反日意識を彼らは素直に受け入れたのだろうか。この点について、何か別の要素が働いていたのではないだろうか?
 
 今日の日本には、「併合時代に日本は朝鮮半島に多大な投資を行い、近代化を進め、人口も倍増させた。なによりも、それ以前の清国の属国状態から脱却させてやったのに、なぜその恩を仇(というか反日意識)で返すのか?」という論調がある。私は、逆にこの事実こそが韓国人の反日意識の根底にあるのではないかと考えている。もしも軍事政権時代の韓国人が「かつて我が国は清国の子分として東アジアでも高い地位にいたのに、格下の日本が我が国を清国から切り離し、さらに清国滅亡の引き金を引いたのだ」と考えていたとしたらどうだろう。分からなければ、もしいま中国かロシアあたりが日本国内の米軍基地をすべて攻撃・破壊し、その結果米国が孤立主義を深めて東アジアにおけるプレゼンスが低下したとして、その国が「日本をアメリカから独立させてやったんだから恩に報いよ」と言ってきたとしたら、どうだろうか。ほとんどの日本人はその国を憎悪し、かつてアメリカとともにアジア・太平洋地域の安定に貢献してきた過ぎし時代に親近感を感じるだろう。そう考えると、韓国人の反日意識だけでなく、実は結構強い反米意識と中国への親しみ、さらには今なお中国と同盟関係にある北朝鮮への親近感までが説明できる。「日本がその時代の貧しさから引き上げてやり、漢江の奇跡が実現した」という反論もナンセンスである。日本人だって、物質的には今よりはるかに貧しく身分制度も酷かった江戸時代に対して親しみを感じているではないか。こんにち「時代劇」といえばそれは江戸時代を舞台とした劇を指す。人は、物語でしか知らない過去の時代に親しみや栄光を覚えるものなのだ。
 
 そのように考えると、今回のGSOMIA騒動はこれで収束しない未来も見えてくる。今後は韓国人の反米意識が試される展開になるのではないだろうか。そこに反日の燃料が投入されれば、今後の米韓軍事同盟の破棄もあり得ない話ではないと思う。まだ文大統領の任期は残されており、支持率も低くない。まだまだ楽しませてくれそうな予感がする。

韓国の野望・前編(2019/11/23)

 正直韓国ネタで文章を書くなんて無粋な気がするし、ありきたりで新鮮味のないことしか書けないのでこれまでもスルーしてきたが、今年に入ってからの盛り上がり方はこれまでとは少し違う。考察のし甲斐、文章に記しておく価値があるように思われる。ということで、一つ文章を書いておこうと思う。ただし個人的な考察だけであり、資料の調査とか学術的な価値のあるにするつもりはないのであしからず。
 
 韓国における反日は近年に始まったことではなく、少なくともソウルオリンピックが開催されていたころ(1988年)から普通にあった。確かに当時から日本のマスコミは韓国に対して忖度する傾向はあったが、今ほど異常であからさまなものではなかった。なので、ネットがなくても注意してマスコミのニュースや報道を見ていれば韓国における反日活動の実態を知ることはできた。その実態というのは、少数の金目当ての過激な中心核とそれを取り巻いて「恨(ハン)」に酔いたい反日を趣味とする人々、さらにその感情を自身の支持に取り付けたい政治家たちによる飽くなき活動であり、それは今でもそれほど変わっていない。当時から韓国の実態を知る者からすれば「ありきたりで新鮮味のないこと」である。状況が変わり出したのは、2017年に文大統領が政治の表舞台に出てきてからである。
 
 一般的な見方では、それまでの朴クネ前大統領よりさらに反日色の強い大統領に代わった、くらいの認識だった。ネット上では「従北派」としてその“活躍”を期待する向きもあったが、あくまでも無責任な期待でしかなかったはずだ。それこそネット上ではいろいろと期待されていた平昌オリンピックが無事に終わり、私も上記の一般的な見方が現実的だろうと見ていた。国内のマスコミはモリカケ論争に明け暮れ、朝鮮半島では2018年6月に実現した米朝首脳会談とそれに先立つ北朝鮮関連の話題が世界の注目を集めた。少なくとも国内では、文大統領の動きはそれらのニュースの脇に追いやられてあまり注目されなかった。それが同じ2018年の後半に徴用工訴訟の最高裁判決(10月)、自衛隊偵察機へのレーダー照射(12月)と現在まで尾を引く重大事件が発生し、それらの仕掛人もしくは責任者として文大統領の人物像が鮮明に認識されるようになった。とはいうものの、それらについても一般的な認識ではまだ反日政治の一環だとみなされていた。「自衛隊偵察機へのレーダー照射は韓国海軍が隠れて行っていた北朝鮮船舶への“瀬取り”行為を隠すためだった」などと言えば、周囲から信用できない陰謀論者だとみなされてしまっただろう。
 
 2019年に入ると2月と6月の2回にわたって米朝首脳会議が実現したものの何の成果も上がらず、国内では皇室関連のニュースによって韓国と文大統領の影は薄くなっていたが、7月に発生した「ホワイト国除外措置」によって韓国ネタが再び日本のニュースの主役となった。韓国政府と文大統領はこの措置を「自由貿易主義に反する輸出規制だ」として強硬に非難を続け、現在に至っている。韓国国民となぜか日本のマスコミもそれに歩調を合わせ、日本政府の「輸出管理」という言葉ではなく韓国側の「輸出規制」という言葉を使い続けている。これは現在の日本のマスコミの偏った姿勢を示す最も明確な事例の一つだと思うのだが、ここに至って逆に韓国への忖度を取りやめ、韓国側のやり方を非難するマスコミも一部に出てきたようである(平日お昼のワイドショー番組など)。
 
 そして、おそらくは嫌韓勢が最も盛り上がったであろう、8月末のGSOMIA破棄通告へとつながる。一応説明しておくと、GSOMIAとは「軍事情報に関する包括的保全協定(General Security of Military Information Agreement)」の略語で、ここでは特に日本と韓国の間で結ばれた協定のことを指す。軍事に関する秘密情報をやり取りする場合、それを勝手に他国に教えることを禁ずる取り決めである。日韓の間のGSOMIAに実際上の効果はあまりなく、日本と韓国が“味方同士”の関係にあることを互いに確認するための象徴的な意義のために結ばれているとされる。ちなみに一応の確認であるが、日本と韓国の間に同盟関係は存在していない。両国ともアメリカと同盟関係にあるが、「同盟国の同盟国」は同盟国としては扱われない。したがってGSOMIAが破棄された場合、両国は敵国同士になり得るということである。
 
 この点を正しく認識している嫌韓勢は、韓国側からその破棄を通達してきたとき「これで晴れて敵国として扱えるようになる」として大いに盛り上がった。一方の韓国側もこの点を正しく認識していたのかどうか、朴クネ前大統領の時代にこれが結ばれるときには大々的な反対運動が展開されていたという。もう一つの重要な側面は、このGSOMIAに対して日本政府はそれほど積極的な態度を持っておらず、アメリカ政府が重大で積極的な態度を持つものだということである。したがって先の話を少し補足すると、嫌韓勢の盛り上がりは「これで晴れて韓国が“日米の”敵国として扱われるようになる」という期待によるものだったのである。
 
 ここに至って私はようやく一つの合理的な解釈を得ることができた。文大統領の狙いはただの反日ではなく、実のところ南北朝鮮の統一だったのだ。それを阻むものは何かと考えたとき、北朝鮮を敵視しているとみなされている日本との関係、およびアメリカとの同盟関係が壁となって統一を阻んでいたのである。したがって彼がすべきことは、日本との関係を破たんさせ、さらにアメリカとの同盟関係を破棄すること、となる。そして重要な点は、国民の支持を失わずにそれを成し遂げなければならないことである。その先にはもう一枚、南北両国の軍部という壁が残されているが、これは国民の支持があれば突破できる壁である。統一さえ成し遂げられればおそらく自分の役割は終わり、あとは統一国家の国民がどうするかを決めればよい。これが文大統領の野望であると私は考える。
 
 彼は大統領への就任以前から日本とのGSOMIA破棄を公約に掲げており、おそらくこれまでの流れは彼の描いていた筋道の通りの展開だったのだろう。日本によるホワイト国除外措置は予想していなかっただろうが、それを反日の燃料に利用すれば国民の反発を小さく抑えつつGSOMIA破棄を実現できる、という読みはあったと思う。これぞまさに真の意味での“用日”である。とはいえ利用された日本側が愚かだったとは言えない。もしホワイト国除外措置が起こらなかった場合には、レーダー照射に絡む日本の偵察機の接近を韓国への敵対行為として国内に宣伝し続け、反日感情によってGSOMIA破棄への反発を抑えるつもりだっただろうから。それでも十分な効果があると思われ、どのみち日本に彼の野望を止める手立てはなかったのである。
 
 では、日本政府がGSOMIA破棄を回避すべきと考えた理由は何だろう。本来であれば8月末に破棄は決定されたのであり、その後にそれを取り消すことはできない。にもかかわらず「11/22までは待ってもいいから取り消して」と回答したのは、明らかに日本側の“譲歩”である。それゆえの「ボールは韓国側にある」だった。その背後には当然アメリカの意向もあったと推測されるが、それが完全に意に反する譲歩だったというわけでもなさそうだ。とはいえやはり積極的な姿勢とまでは言えず、韓国側の決意が固ければやむを得ず、という姿勢であることは読み取れた。以上から推測されるのは、日本政府は依然として韓国を大陸の共産主義勢力(ロシア政府と中国共産党)からの軍事的防波堤とみなしており、それを日本における韓国の必要性だと考えているだろうことである。
 
 とは言え今さらロシア政府と中国共産党を“共産主義勢力”と一括りに考えるのには無理があるし、また韓国が日本の期待通りに防波堤として機能してくれる保証もない。反日を絶対的な国是と考えている今の韓国であれば、日本への軍事侵攻をたくらむ勢力に喜んで助力する事態を想定しなければならないだろう。それゆえの消極的な態度だと私は推測する。けれども、もしも私が日本の戦略決定の立場にあれば、やはり韓国を“潜在的な味方”と想定し、北朝鮮という独裁主義勢力(の象徴)に対抗する自由主義勢力の一員として将来の日本に引き渡すよう努めるだろう。これが正道の安全保障戦略であり、大国たる日本がとるべき戦略であると考える。これはまた小国である分断された南北両国家の分裂状態を利用しようという策であり、文大統領の抱く野望に真っ向から反するものである。客観的な立場から見て、私は文大統領が日本で言われているほど愚かで無能だとは考えていない。(後編に続く)