ミャンマー旅行記(3/4) ;河の向こう側

ヤンゴン市内には鉄道の環状線があるのだが、本数が多くないため便利ではない。
道路は基本的に自動車のためのもので歩行者に対しては非常に不親切であり、
日差しもきついことから、ちょっとした移動にもタクシーを使うことになる。
値段も手頃で数も多いので、気楽に利用できるのがうれしい。
そしてなにより、ドライバーがまじめで誠実なのだ。
「おつりはチップでいいよ。」というと、多くは申し訳なさそうな顔で受け取る。
日本はともかく、アジアの国でタクシードライバーが誠実な国なんて聞いたことがない。
高額紙幣を出すと、「細かいお金を持っていないからおつりは出せない。」
車に乗り込むと、「それよりもガールのいるお店へ行かないか?」
空港のタクシー窓口でもらったチケットよりも高い額を請求されたこともあるし、
深夜タクシーが言われた所にはまず行かないという国だってある。
アジアや中南米を旅行したことのある人には、この驚きを分かってもらえるはずだ。

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タクシードライバーに限らず、概してミャンマー人からは
比較的まじめで誠実だという印象を受けた。働く意欲を感じる。
多くの国民が飲酒を悪癖と考え敬遠するなど、国民の倫理観も比較的高いようだ。
しかし、残念ながらそうでないミャンマー人も中にはいる。

ヤンゴンダウンタウンヤンゴン川の北岸一帯に形成されている。
ヤンゴン川に架かる橋はダウンタウンの近くにはなく、
そこから南岸へ渡るにはフェリーに乗るしかない。
河の向こう側へ行ってみようと思いたち、まずはフェリーの船着き場へ行った。
チケット売り場でチケットを買おうとすると若い女性が隣に来て、
「あなたは日本人?日本人ならチケットはいらない。ただで乗れる。」
かなり流暢な英語。
「このノートに名前と国名を書けばOK。
 ところで、あちら側に渡って観光をするつもり?だったら私をガイドにして頂戴。」
うゎー、来た。自称ガイド。
インドやネパールの観光地には大勢おり、
ちょっとしたガイドをして大金を要求してくるぼったくりの一種。
ミャンマーでも、シェダゴン・パヤーの中で自称ガイドに遭遇している。
しかし若い女性の自称ガイドというのは珍しい。
ガイドブックには南岸の郊外地区にあるという観光地の記事があり、
そこへ行ってみようかと考えていたのだが、結構遠いようで、
情報も少なく本当に行けるかどうかも心配だった。
一本道で逃げ場はなく、どうせ無視してもしつこく付きまとってくるのだし、
ここは覚悟を決めて彼女をガイドにつけてやることにした。
「ガイドにしてくれるか。で、タワンテに行きたい?
 少し遠いからバイク・タクシーで行くことになる。」
「えっ、二人だし、自動車のタクシーのほうが安全でいいんだけど…」
「バイク・タクシーのほうが速くて便利」

彼女の言う通り、別室のノートに名前を書くだけでフェリーに乗ることができた。
聞けば、ここで就航しているフェリーはすべて日本のJICAから寄贈されたものなので
日本人はすべて無料で乗船できるのだという。
対岸の船着き場で下船するとすぐ近くに駐車場があり、
そこで彼女は手際よくバイク・タクシーを2台手配した。
ミャンマーでバイク・タクシーは初めて見たが、
それはヤンゴン市内ではバイク自体が禁止されているからなのだとか。
確かにヤンゴン川南岸のダラ市内ではバイクがたくさん走っていた。
しかも、かなり速い。
道路はほぼ直線に伸びており、ヤンゴン市内と違って通行量は多くない。信号もない。
並走する自動車を何台も追い抜いたので、おそらく60km/hは出していただろう。
道路の状態は良くない。アスファルトが粗悪なのか所々にひび割れ、窪みがあり、
ドライバーはそれを避けて通らなければならない。
そして、同乗する客も常に前をチェックし、来る衝撃に備えなければならない。
ヘルメットをかぶっているものの日差しはきつく、
そして前方から吹き付けてくる熱風がすさまじい。

30分ほど走ったところでバイクが止まった。
その周囲にある民家と変わらないような納屋が、焼き物の工房なのだという。
中では女性がろくろに向かって壺を作っており、
上半身裸のおじいさんが製品を運んだりしていた。
まだ余熱の残っている窯の扉を開けて、中を見せてくれたりもした。
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去り際にチップを渡そうとすると、「お金はいいです」と彼女。
ガイドブックには、「ヤンゴン郊外のタワンテは焼き物の町として有名」とある。
しかし観光客の来るところではなさそうで、みやげ物屋も見なかった。

蛇の寺院などを見て回った観光の最後に、
彼女がどうしても連れて行きたい場所があるという。
ヤンゴン川に近いダラ市の一角にある通称「バンブー・ビレッジ」、
別名を「ツナミ・ビレッジ」という、と説明された。
そう呼ばれるのは、2008年に東南アジアを襲った大津波の被災者たちが住みついた
避難キャンプがそのままスラム化した場所だから、ということだった。
建物がすべて竹でできていることから「バンブー・ビレッジ」とも呼ばれ、
地区一帯に電気が来ていない。いわゆる沼沢地で、人が住むのには適さない。
なぜなら、雨季になると蚊が大量に発生してマラリアが蔓延するから。
周囲には耕作を放棄された荒れ地が広がっており、
それは津波による塩害で作物が育たなくなってしまったからだという。
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うーん、なるほど。

ただ、先ほど見てきたタワンテへ行く途中の集落もみなそんな感じだった。
ごみ溜めのような沼地の上に竹製の家が建っており、雨季には蚊に悩まされるだろう。
第一タワンテの焼き物工房も建屋の骨組みは竹、壁と屋根はヤシの葉っぱだった。
というかそもそも、タイでも少し田舎へ行くと今でも大体そんな感じなのだが。
スラムとはいっても子供たちは元気で明るく、おばさんたちは温和な表情をしていた。
若者はほとんどいない。どこかへ働きに行っているのだろう。
帰国後に調べてみると、東南アジアを大津波が襲ったのは2004年で、
2008年はヤンゴン近辺が強烈なサイクロンによって大きな被害を受けた年だった。
(;JICAのHPによると、死者・不明者10万人以上の被害だったとのこと)
おそらく、2004年の大津波による塩害であの地区一帯が徐々にスラム化し、
社会基盤がぜい弱化したところを2008年のサイクロンに襲われ大きな被害を出し、
しかし今はヤンゴンの経済発展の余波を受けて良くなりつつある
といったところではないだろうか。

船着き場近くの駐車場に戻ってくると、そこの元締めらしき人物が近づいてきて、
「バイク2台のチャーター料金は160ドルになる」
なに、そんなにとるのか。適正価格の3倍以上の額だ。
ドル紙幣を取り出そうとすると「待て、別の紙幣を見せろ」と言われ、財布を取られた。
すぐに返されたが、後で調べたところドル紙幣がかなりなくなっており、
そのときにおそらく300ドル以上抜き取られたようだ。
おそらくは、女性ガイドもバイク・タクシーの運転手もみなグルで、
この元締めをリーダーとする闇旅行会社になっていたのだろう。

旅の途中で、彼女の話を聞いた。
「私は18歳」 えーっ!未成年だったのか。
「私には妹が二人いて、どちらも学生で勉強をしている」
「私のお父さんは津波で死んだ」
闇ガイドの言うことなんて、本当かどうか分かったものじゃない。
が、彼女の言った次の言葉は真実だろう。
「どうして旅行会社に就職して本物のガイドにならないの?」
(;この時点では彼女は一人で“自称ガイド”をしているものと思っていた。)
「私は大学を出ていないので、旅行会社は雇ってくれない。書類審査が通らない。」
確かに、先日のバガン・ツアーのガイドさんはヤンゴン大学を出ていると言っていた。
彼女のガイドの様子は手慣れたものだったし、やる気・意欲も感じた。
なにより英語が流暢であり、今のミャンマーでは重宝される人材であるはずだ。
が、外資企業が支配的な社会において、学歴の壁は厚い。
ならば街の露店で果物を売れ、あるいは早く結婚して主婦になれ
と彼女に言えばよいのか。
いろいろと重苦しい気分のうちに、ヤンゴン市側へ戻るフェリーの帰路にあった。
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