神殺しの不確定性

 前回の記事で述べたように、量子力学において言われる「確率的にしか分からない」という言葉には全く異なる二つの意味が含まれている。一つ目は「基礎的な粒子は個性を持たないこと」に由来する不確定性。こちらは割と誰にも受け入れられやすい。二つ目は「二つのパラメータの交換関係が古典的でないこと」に由来する不確定性。問題はこちら側で、特に物理学に携わる人間にとっては受け入れがたい。けれども実験事実がその存在を示しているため、受け入れざるを得ない。その最も分かりやすい例が、光の偏向に関するものだろう。

 電磁波は電場と磁場の波であり、それらは特定の方向に振動している。普通の光はすべての方向の振動を含んでいるが、偏光板を透過させるとその中から特定方向に振動する光のみを取り出すことができる。さらにそれと直交する偏光板に入射させると、すべての光が遮断されてしまう。これは液晶ディスプレイにも応用されている現象である。ここで、ある方向の偏光はその両隣り45度ずれた偏光の重ね合わせだと見ることもでき、事実その方向の偏光板を透過させることで一方の斜め偏光のみを取り出すこともできる。そしてそれを2回繰り返すと、本来ならば完全に遮光されるはずの直交する2枚の偏光板対を部分的にせよ透過させることができてしまうのである。この状況を全体的に見ると、2枚目の偏光板が最初の偏光板を透過した履歴を消してしまったことになる。すなわち事象の因果律が破られているのであり、因果律をすべての基礎とする物理学者にとってこの結果を受け入れることは難しい。

 光の偏向は光子のスピンと関連しており、スピンは角運動量に関連する。そして前回指摘したように量子力学における角運動量は古典的な交換関係が成立しないパラメータ対の一つであり、上記の二つ目の不確定性を持っている。これは「量子もつれ」とも呼ばれ、現在量子暗号や量子コンピュータに応用されようとしている性質である。前回の記事で触れた基礎的粒子のダブルスリット通過実験も本質的には一意的な因果律を否定する点に異常さ・受け入れがたさがあるのであり、古典的な交換関係の破綻に由来する不確定性だという点でこの量子もつれと共通する。

 とはいえ、なぜ古典的な交換関係が成立しない二つのパラメータの間に不確定性が生じるかと言えば、それは「波動関数にパラメータを表す演算子を作用させることでそのパラメータの値が計算される」という量子力学のルールから出てくるのである。アインシュタインらが主張したように量子力学のルール自体が正しくないのであれば、このような不可解な不確定性が生じる必然性はなくなる。しかしながら上で述べたスピンの量子もつれもダブルスリット通過実験も理論と関係なく得られる実験事実なのであって、これらの不可解な実験事実を忠実に説明できる量子力学がそのことで理論的妥当性を支持されている、というのが実態なのだ。

 それでもこのような不可解な不確定性を認めない方式をとることはできないものか、と検討するのが正しく理性的な態度であるように思える。が、そこから得られる結論もまた人間にとって受け入れがたいものなのである。もしこのような不確定性が存在していなければ、宇宙は因果律による完全な支配のもとにあることになる。それはすなわち、未来に生じる事象はすべて一番初め、ビッグバンの瞬間に決められていたということである。私たちの気まぐれで始めた遊び、奇跡的な幸運による彼女との出会い、不運としか言いようのない事業の失敗、それらもすべて初めから決められていた定めなのだ。私たちに運命から逃れるすべはなく、映画やテレビドラマの観客として受動的に自らの人生を生きるしかない。これが世界の本質的な不確定性を認めない決定論的な宇宙観である。

 カオス理論を持ち出してこれに反論を試みようとする主張があるかもしれない。カオス理論とは「ごく小さな違いが後々大きな違いをもたらす」ということだが、この「ごく小さな違い」もやはり因果律支配下に置かれることになる。したがってカオス理論の述べるところ全ても因果律支配下に置かれ、それは物理学者の目から逃れられたとしても、神の目から逃れることはできない。そして私たちの思考についても同様で、自分では気まぐれや自由意志と思っているものもすでに130億年以上前にそうなることが決まっていたことになる。

 この場合、初期条件こそが万物創造を成した神ということになる。初期条件を一度リリースしたらその後の修正はできないところは西洋の唯一神と似ている。祈願してもご利益は得られないがそれでも敬え、というスタイルである。神がこのような世界を望まれるかどうかは分からないが、占い師はこのような世界を望むだろう。自らの占いが真実を映しているかどうかはともかく、占いという概念が正当化されるからである。では物理学者はどうだろう。すでに確定して路線変更の存在しない世界が物理学を正当化するかどうか、その考え方の違いが量子力学に対する態度を決める“隠れた変数”なのかもしれない。

 一方で量子力学不確定性原理が正しいとするならば、この世界では限られた条件のごく小さな量でのみ因果律を破ることができる。その量は小さくとも、私たちにはカオス理論がある。うまくすれば、ごく小さな因果律の破れから宇宙規模で初期条件からの路線変更をなすこともできる。これが非決定論的な宇宙観だ。私たちの思考は突き詰めればニューロン細胞内の電圧インパルス信号である。その生成・消滅の不確定性は基本的には因果律を破らないタイプ、すなわち人間の検出能力でとらえられなくても神には知られてしまうタイプであるが、例えば神経伝達分子とそのレセプターの応答には因果律を破るタイプの不確定性もありそうである。私たちの脳は一見デジタルなインパルス信号の密度でアナログな情報処理を行っており、ただし純粋なアナログ処理とは異なりカオス的な振る舞いをすることもある。そう考えると、私たちの思考は効率的に因果律の支配から脱するようにできているのではないだろうか。

 天体の運行や流体の熱的挙動、構造体の変形や破壊といった巨視的な世界は依然として神とその預言を聞き取れる物理学者の支配下にある。それはこれからも変わらないだろう。物理学者は今、神の確かな言葉が得られない量子力学素粒子の分野に支配の範囲を広げようとしている。量子力学は物理学の神=決定論に対する決別宣言であり、同時に自らの能力と存在意義に限界を設けることでもある。けれどもそれを受け入れてでも先へと進まなければならない。先に進めなくなった物理学はマニアにしか受け入れられない伝統芸能となるか、さもなくばコモディティ化の波に飲み込まれて大衆芸能となるかの二者択一である。これが初期条件によって定められた物理学の運命だというのであれば仕方がない。しかしそうでないならば、明るい未来を勝ち取るための苦しい闘いを続けなければならないのである。