神殺しの不確定性

 前回の記事で述べたように、量子力学において言われる「確率的にしか分からない」という言葉には全く異なる二つの意味が含まれている。一つ目は「基礎的な粒子は個性を持たないこと」に由来する不確定性。こちらは割と誰にも受け入れられやすい。二つ目は「二つのパラメータの交換関係が古典的でないこと」に由来する不確定性。問題はこちら側で、特に物理学に携わる人間にとっては受け入れがたい。けれども実験事実がその存在を示しているため、受け入れざるを得ない。その最も分かりやすい例が、光の偏向に関するものだろう。

 電磁波は電場と磁場の波であり、それらは特定の方向に振動している。普通の光はすべての方向の振動を含んでいるが、偏光板を透過させるとその中から特定方向に振動する光のみを取り出すことができる。さらにそれと直交する偏光板に入射させると、すべての光が遮断されてしまう。これは液晶ディスプレイにも応用されている現象である。ここで、ある方向の偏光はその両隣り45度ずれた偏光の重ね合わせだと見ることもでき、事実その方向の偏光板を透過させることで一方の斜め偏光のみを取り出すこともできる。そしてそれを2回繰り返すと、本来ならば完全に遮光されるはずの直交する2枚の偏光板対を部分的にせよ透過させることができてしまうのである。この状況を全体的に見ると、2枚目の偏光板が最初の偏光板を透過した履歴を消してしまったことになる。すなわち事象の因果律が破られているのであり、因果律をすべての基礎とする物理学者にとってこの結果を受け入れることは難しい。

 光の偏向は光子のスピンと関連しており、スピンは角運動量に関連する。そして前回指摘したように量子力学における角運動量は古典的な交換関係が成立しないパラメータ対の一つであり、上記の二つ目の不確定性を持っている。これは「量子もつれ」とも呼ばれ、現在量子暗号や量子コンピュータに応用されようとしている性質である。前回の記事で触れた基礎的粒子のダブルスリット通過実験も本質的には一意的な因果律を否定する点に異常さ・受け入れがたさがあるのであり、古典的な交換関係の破綻に由来する不確定性だという点でこの量子もつれと共通する。

 とはいえ、なぜ古典的な交換関係が成立しない二つのパラメータの間に不確定性が生じるかと言えば、それは「波動関数にパラメータを表す演算子を作用させることでそのパラメータの値が計算される」という量子力学のルールから出てくるのである。アインシュタインらが主張したように量子力学のルール自体が正しくないのであれば、このような不可解な不確定性が生じる必然性はなくなる。しかしながら上で述べたスピンの量子もつれもダブルスリット通過実験も理論と関係なく得られる実験事実なのであって、これらの不可解な実験事実を忠実に説明できる量子力学がそのことで理論的妥当性を支持されている、というのが実態なのだ。

 それでもこのような不可解な不確定性を認めない方式をとることはできないものか、と検討するのが正しく理性的な態度であるように思える。が、そこから得られる結論もまた人間にとって受け入れがたいものなのである。もしこのような不確定性が存在していなければ、宇宙は因果律による完全な支配のもとにあることになる。それはすなわち、未来に生じる事象はすべて一番初め、ビッグバンの瞬間に決められていたということである。私たちの気まぐれで始めた遊び、奇跡的な幸運による彼女との出会い、不運としか言いようのない事業の失敗、それらもすべて初めから決められていた定めなのだ。私たちに運命から逃れるすべはなく、映画やテレビドラマの観客として受動的に自らの人生を生きるしかない。これが世界の本質的な不確定性を認めない決定論的な宇宙観である。

 カオス理論を持ち出してこれに反論を試みようとする主張があるかもしれない。カオス理論とは「ごく小さな違いが後々大きな違いをもたらす」ということだが、この「ごく小さな違い」もやはり因果律支配下に置かれることになる。したがってカオス理論の述べるところ全ても因果律支配下に置かれ、それは物理学者の目から逃れられたとしても、神の目から逃れることはできない。そして私たちの思考についても同様で、自分では気まぐれや自由意志と思っているものもすでに130億年以上前にそうなることが決まっていたことになる。

 この場合、初期条件こそが万物創造を成した神ということになる。初期条件を一度リリースしたらその後の修正はできないところは西洋の唯一神と似ている。祈願してもご利益は得られないがそれでも敬え、というスタイルである。神がこのような世界を望まれるかどうかは分からないが、占い師はこのような世界を望むだろう。自らの占いが真実を映しているかどうかはともかく、占いという概念が正当化されるからである。では物理学者はどうだろう。すでに確定して路線変更の存在しない世界が物理学を正当化するかどうか、その考え方の違いが量子力学に対する態度を決める“隠れた変数”なのかもしれない。

 一方で量子力学不確定性原理が正しいとするならば、この世界では限られた条件のごく小さな量でのみ因果律を破ることができる。その量は小さくとも、私たちにはカオス理論がある。うまくすれば、ごく小さな因果律の破れから宇宙規模で初期条件からの路線変更をなすこともできる。これが非決定論的な宇宙観だ。私たちの思考は突き詰めればニューロン細胞内の電圧インパルス信号である。その生成・消滅の不確定性は基本的には因果律を破らないタイプ、すなわち人間の検出能力でとらえられなくても神には知られてしまうタイプであるが、例えば神経伝達分子とそのレセプターの応答には因果律を破るタイプの不確定性もありそうである。私たちの脳は一見デジタルなインパルス信号の密度でアナログな情報処理を行っており、ただし純粋なアナログ処理とは異なりカオス的な振る舞いをすることもある。そう考えると、私たちの思考は効率的に因果律の支配から脱するようにできているのではないだろうか。

 天体の運行や流体の熱的挙動、構造体の変形や破壊といった巨視的な世界は依然として神とその預言を聞き取れる物理学者の支配下にある。それはこれからも変わらないだろう。物理学者は今、神の確かな言葉が得られない量子力学素粒子の分野に支配の範囲を広げようとしている。量子力学は物理学の神=決定論に対する決別宣言であり、同時に自らの能力と存在意義に限界を設けることでもある。けれどもそれを受け入れてでも先へと進まなければならない。先に進めなくなった物理学はマニアにしか受け入れられない伝統芸能となるか、さもなくばコモディティ化の波に飲み込まれて大衆芸能となるかの二者択一である。これが初期条件によって定められた物理学の運命だというのであれば仕方がない。しかしそうでないならば、明るい未来を勝ち取るための苦しい闘いを続けなければならないのである。

シュレディンガーの猫に霊があるならば非道な実験を許すか

 ある日、シュレディンガーの猫は人間に捕まえられ、密室に閉じ込められた。必死で抵抗するも出口は開かず、また居心地も悪くなかったのでそこで大人しく座っていることにした。ところがそこには恐ろしい仕掛けが施されていた。ごく弱い放射線源と放射線検出器、それに連動した毒ガス発生装置が仕掛けられており、検出器が放射線源からの放射線を検出した途端、毒ガスが発生して密室に流れ込むように仕込まれていたのだ‥‥。

 

 量子力学的には、放射線源を構成する放射性元素の崩壊現象は確率的にしか論じることができない。そしてさらに、量子力学では確率を重ね合わせて議論することができる。ゆえに今この瞬間密室に閉じ込められたシュレディンガーの猫は生きて大人しくしている状態と毒ガスで死んでピクリとも動かない状態の重ね合わせなのである‥‥、なんて滑稽な話があるわけがない、ゆえに量子力学はまやかしの理論であり、物理学の分野として認められるべきではない。

 

 という量子力学への批判を行ったのは生涯量子力学を認めなかったアインシュタインだったと私は思っていたが、ウィキペディアの記事によるとこれは量子力学のプロモーター側の立場だったシュレディンガー自身による主張、あるいは思考実験だったらしい。確かにアインシュタインの主張であれば後世それは“アインシュタインの猫”と呼ばれていただろうから、これはシュレディンガー自身の主張ということで間違ってないのだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%8C%AB

 

 誰の主張だったかはともかく、この主張が大きなインパクトを持っていたがために、後世量子力学の不可解さを説明する際には必ず持ち出されることとなった。だが、よく考えてみると何かがおかしい。とても分かりやすい話に思えるのだが、実はそうではない。この主張が正しいのか間違っているのか誰も明言しないからだ。そしてそれは実のところ、ほとんど誰もこの主張の真偽を分かりやすく断言できないからなのだ。だが、私にはできる。私はこの主張(思考実験)が“誤り”である、すなわち「猫の生死が重ね合わされることはない」と断言できる。ただ、それを簡単に説明することは難しい。その説明には、以下に続く長ったらしい文章を最後まで読んでもらう必要がある。

 

 物理学と数学の違いとして、物理学は「原理」を持つことが挙げられる。例えば、特殊相対性理論は「光速度不変の原理」に基づき構築されている。日本語で「原理」などというといかにも正しそうだが、実のところこれは「仮定」「前提」という方が正しい。「特殊相対性理論は『光速度が不変である』という仮定を前提として構築された理論である。」正しくこう書かれていれば、100年以上にわたって途絶えることなく現れる“相対性理論は間違っている論者”の声高な主張はきっと聞かれなくだろう。だって事実この仮定は正しくなく、ゆえに特殊相対性理論も言うほど正しくないのだから。そして、その“正しくなさ”を補うためにアインシュタイン一般相対性理論を導き出したのだから。

 

 近代物理学のもう一つの雄である量子力学にもやはり原理がある。「不確定性原理」という。「すべての主体(;粒子だけでなく、電磁波などの波も含む)はある種の不確定性を持ち、そのために私たちは主体の状態を確率的にしか知ることができない。」定性的にはこのように説明される命題である。量子力学ではこの不確定性原理を前提とし、ゆえに電子などの基礎的粒子を古典的な粒のイメージで記述することをあきらめ、代わりにその存在確率を導く波動関数で記述する。ここまでは、大学などで多少量子力学に取り組んだ者であれば誰もが認めるところである。その中の大部分の者が分かっていないのは次の点、「不確定性原理」の不確定性と「確率的にしか分からない」とは別物だという点だ。

 

 まずは「確率的にしか分からない」について考えよう。私たち一人ひとりの人間はもちろんのこと、同じように作られた工業製品にもそれぞれの個性があり、全く同じものはただの一つもない。一方、素粒子や原子・分子などの基礎的な粒子にそのような個性はなく、私たちにそれらを区別することはできない。「確率的にしか分からない」というのは、この命題と等価である。シュレディンガーの猫を殺すトリガーとなる放射線源中の放射性元素にも個性はなく、「線源の中にいくつの原子が含まれているか」を知ることができるとしても、「その中のどれが次に崩壊して放射線を出すのか、またそれはいつのことか」を知ることはできない。なぜならばそれら原子はみな等価であり、区別できないからだ。そこで私たちは仕方なく、原子の崩壊を確率的に議論する。そしてその結果原子の崩壊頻度は指数関数的な現象挙動を示すことが導き出され、この結果を利用して太古の遺物や岩石が作られた年代をかなりの精度で推定することができる。これも量子力学の一分野である。

 

 次に不確定性原理について考える。不確定性原理の正しさを支持する実験はいくつかあるが、決定的なのはいわゆるダブルスリット実験である。その詳細は割愛するとして概要だけ記すと、2つ用意されたスリット(隙間)の両方を同時に通過したとしか解釈できない基礎的粒子(電子など)の挙動が示されるものである。これは基礎的粒子の経路がどちらのスリットなのかを特定できない本質的な不確定性が現に存在していることを示すものである。このような本質的な不確定性はトンネル・ダイオードやジョセフソン素子として工学的に応用されてもいる。SFではこれが拡大解釈されて宇宙船のワープ航法に利用されたりしているが、それはあり得ない。なぜならば、不確定性の大きさには上限があるからである。ごく小さな基礎的粒子にとってその上限は無視できない大きさのものだが、人間や宇宙船のような大きなものにとってその上限はないに等しいほど小さく、したがって古典的な力学が十分に正しく成立するのである。原子を構成する電子が大きく、原子核が点のように小さいのもこの不確定性の上限によるものである。

 

 けれども、すべての性質に不確定性があるわけではない。量子力学では、古典的な交換関係が成立しないパラメータの間にのみ不確定性が存在すると解釈される(ハイゼンベルグの解釈)。やはり詳細は割愛しなければならないが、「古典的な交換関係が成立しないパラメータ対」はそれほど多くない。位置と運動量、時間とエネルギー、そして角運動量の各成分同士くらいである。私が知らないだけかもしれないが、他にあったとしてもマイナーで、テストには出ないから心配しなくてもよい(;他に生成消滅演算子など運動量を含む演算子なんかもそうです。テストには出るのでご注意)。先述のダブルスリットの実験は位置と運動量の間に生じる不確定性を示すものである。位置とか時間とか、単一のパラメータだけに不確定性が生じるわけではない。したがって上で述べた「確率的にしか分からない」とは別物なのであり、シュレディンガーの猫の生死が“原理的に”不確定なわけではないのだ。私たちは密室の中の猫の生死を確率的にしか知ることができないのだが、今この瞬間に猫が生きているか死んでいるかは猫の魂の有無にかかわらずはっきりと確定しているのである。

 

  このように「不確定性」「確率的にしか分からない」という二つの言葉はそれぞれ異なる事象を表している。けれども見方によっては、「確率的にしか分からない放射性原子の崩壊現象」は個々の原子における崩壊発生時刻の不確定性による、あるいは「不確定性原理」のために測定される素粒子の位置と運動量が確率的にしか分からない、という解釈もできる。特に後者は量子力学の基本原則として学生に教え込まれるため、これらの二つの言葉が同じ事象を表すものとして混同されてしまうのである。この点まで踏まえて考えると、「量子力学における『確率的にしか分からない』という表現は実は異なる二つの意味を含んでいる」と書くべきなのかもしれない。そのことをシュレディンガーの猫が私たちに語ってくれればよいのだが。

 吾輩は不思議な感覚に襲われ、そして突如としてすべてを悟った。今は居心地の良いこの密室には毒ガスが充満する仕掛けが施されており、その仕掛けが作動して吾輩は死んだ。殺されたのだ。けれどもそれを知覚する生きた吾輩が今ここにいることもまた事実である。したがってこの部屋に備えられている毒ガスの仕掛けはまだ作動していない。吾輩を殺した主犯を決して許しはしないが、しかし許さないという吾輩はまだ殺されていない。吾輩の生死は未だ不確定なのだ。さて、吾輩はその主犯を憎むべきなのか、それともこのような不可解な状況を作り出した世界こそ吾輩に憎まれるべきなのか。などと考えていると密室の扉が開き、まぶしい光が差し込んできた‥‥。

銀河系の形成(3/3) そして円盤へ

 銀河系と言えば、人々はまずきれいに渦を巻く円盤を思い浮かべる。実は私たちの銀河系がどのような形をしているのかを推測するのはかなり困難なことであるらしいが、お隣のアンドロメダ銀河をはじめとして宇宙にはきれいな円盤型の銀河系が無数にある。宇宙において質量分布がきれいな円盤を形成する理由は、物理学的には解明されている。例えば大質量の重心天体の周りに無数の小質量物体が無秩序に飛び回っている状態を考えると、物体同士が衝突を繰り返し、最終的にどの物体同士でも衝突を起こさない周回軌道をとる形に落ち着く。それが全体で円盤型になるのである。運動エネルギーは輻射などにより系外に放出できるが、角運動量は放出できないため、衝突でキャンセルしきれず最後に残された角運動量が物体を同一方向に回転させることになる。
 
 土星のリングや太陽系の惑星の軌道はそのようにして説明できる。だが、銀河系も同じように説明できるのだろうか。太陽系では、惑星(比較的小さなものも含める)の公転軌道は1年から数百年程度である。40億年の歳月をかければ、地球の近傍の天体は10億周以上回転できる。その過程で軌道の近い天体同士は合体し、あるいは捕えられて衛星となる。しかし遠方の天体はそれほどの回数周回することができず、彗星のように残留角運動量の定める円盤から逸脱した軌道をとる天体も存在している。では銀河系ではどうか。私たちの銀河系は、一周するのにおよそ2億年かかるとされている。これで果たして、系を構成する質量が十分に衝突を繰り返して一方向の角運動量に統一されるところまで到達できるのだろうか。
 
 そこのところについては正直私も明確な答えを得られていない。ただ言えるのは、当初物質は宇宙に均一に分布していたのであり、それが最終的にごく小さな領域に集中して個々の銀河系を形成したということである。角運動量についても当初はほとんど等方的で、目立った回転運動はなかったと言える。そこにたまたま生じた質量の集中が重力によって広範に散らばる質量分布を寄せ集め、ごく狭い領域に殺到させた。その結果それらが比較的頻繁に衝突を繰り返し、運動エネルギーを放出して角運動量を打ち消し合ったのだろう。定量的な推定はできないが、結果的にそれが速やかに実現したことで今の銀河宇宙があるのだろうし、あるいはそれまでに十億年単位の時間がかかったのであれば、それほど速いとは言えないのかもしれない。銀河系同士の間隔は平均して数百万光年であり、数十億年あれば距離の壁を越えられないことはない。
 
 それに関連してもう一つの疑問が生じる。かつて宇宙には物質が均質一様に分布していたというのであれば、現在の銀河宇宙では銀河系の分布がまばらすぎるのではないだろうか。あるいは、銀河系から離れた虚無空間に星や星雲が全く見られないというのは不自然ではないだろうか。例えば私たちの銀河系の大きさは円盤の直径がおよそ10万光年、お隣のアンドロメダ銀河までの距離はおよそ200万光年で直径の20倍、しかしこれは私たちの銀河系に接近しつつあるものであることを考慮し、銀河系の流域をざっくり直径1,000万光年とすると、直径のおよそ100倍となる。その中にアンドロメダ銀河や大小マゼラン雲のようなはぐれ者がいるとしても、それ以外の質量がすべて私たちの銀河系に集中できるものだろうか。
 
 この点について私は一つの説を持っている。それは、現在よりもっと密集して形成された銀河群が宇宙の膨張により間隔を広げて現在に至った、というものである。重要なポイントは、自由な状態にある質量分布は宇宙の膨張に乗っかってその分布を広げてゆくのに対して、束縛状態にある質量分布はそれができず元の大きさを維持し続ける点である。これも宇宙の膨張がエネルギー保存則に従うことから来る帰結である。
 
 太陽と地球の関係を例に考える。宇宙の膨張に乗っかって地球が太陽から離れると、エネルギー保存則により地球は運動エネルギーを失う。すると地球の公転速度がわずかに遅くなり、太陽に向かってわずかに落下する(厳密には、安定軌道が内側に移動する)。その結果ポテンシャル・エネルギーが運動エネルギーに変換され、結局地球は元の公転軌道を元の速度でめぐり続けるのである。地球は太陽の周りを50億年近く回り続けており、その間にも宇宙は膨張し続けているが、それにより地球が太陽から離れて寒冷化しているわけではない。
 
 クェーサーの光は比較的大きく赤方偏移している。それをドップラーシフトによるものだとする主張がしばしばあるが、それは誤りである。地球で観測される背景放射は著しく赤方偏移しているが、これがその放射主体が光速に非常に近い速度で遠ざかっていたからではないのと同じである。背景放射の放射源やクェーサーから放たれた光がはるばる地球に到達するまでの百数十億年の間に、宇宙の膨張に引っ張られて波長が伸びてしまったのである(;重力論的な赤方偏移の寄与もあるだろうが、ここでは無視する)。ということは、クェーサー赤方偏移量はそれができてから現在までの間に宇宙がどれだけ膨張したかを示していることになる。
 
 ではその赤方偏移量はどれくらいかというと、現在までに観測されている最大のものでおよそ8倍、多くは2倍に満たない程度であるという。けれどもこれはクェーサー自体の発光を調べた結果なのであり、クェーサーとして強烈に発光し始める以前からすでに重力による束縛状態に陥っているはずである。さらに宇宙全体の一様性を考えれば、現在銀河系となっている質量集中の大部分がほぼ同じ時期に束縛状態に陥り、やはり同じ時期にクェーサーとして輝きだしたと考えられる。それは現在観測されている最古のクェーサーよりさらに古い時期、さらに宇宙が小さかった時期である。観測された数(の多さ)は観測されやすさの影響を受けており、絶対的な数を示すものではない。先の計算では流域の大きさが銀河系自体の100倍という結果だったが、束縛状態成立後の宇宙膨張が10倍であれば流域は10倍、宇宙膨張が20倍であれば流域は5倍である。流域の大きさが銀河系自体の数倍というのは直観的に納得しやすいスケールだろう。
 
 最後に取り上げる謎は、銀河系の形成にまつわるダークマターについてである。銀河系内の星々は銀河系中心からの距離と関係なくほぼ一定の速度で公転しており、そのためには明るさから推定されるよりも多くの質量が分布していなければならない。この見えない質量分布を担うのがダークマターである。それ以外の理由(例えば複数の銀河系からなる銀河団の挙動、さらに大規模な構造の形成など)により存在が想定されるダークマターもあるようだが、まずはそれらとは区別して考えるべきだろう。ここでダークマターとは、光や電波を放出しないが質量は持っており、長期間安定して存在するものと定義される。例えばブラックホールはこの定義を満たすが、通常ブラックホールはその周囲に強い電磁波を放出する物質の取り巻きを有しており、そのためダークマターとはみなされない。電荷を持たない素粒子、例えばニュートリノなどはダークマターである。
 
 ダークマターの正体として、電荷を持たない素粒子が有力視されている。ただしニュートリノでは軽すぎるので、こんにちまだ確認されていない未知の素粒子ということになっている。けれども私はこの見解に対して懐疑的である。それが銀河系内の公転分布に影響を与えるためには銀河系の内部に局在している必要があり、それは重力的に束縛状態にあることを意味している。けれども第1回の記事で述べたようにビッグバン直後の質量は自由な状態にあったのであり、それが束縛状態に至るためには電磁波を放出できなければならない。電荷を持たない素粒子にはそれができず、したがって今なお自由な状態にあり局在できていないと考えられるからである。ちなみに電子と陽子が結合してできる水素原子も中性だが、水素原子同士は電荷に由来するファンデルワールス力によって衝突し、その際に電磁波を放出することができる。地球上の大気も夜間にはそのようにして少しずつ温度を下げている。
 
 そう考えると、銀河系の内部および近傍に局在するダークマターの正体としては、電気的に中性でかつ電磁波を放出できる中性水素原子が有力なのではないか。という主張に対しては、「宇宙空間に分布する水素原子は波長21cmの電波により検出できる(したがってダークマターではない)」という反論が用意されている。この波長21cmの電波とは、電子ー陽子のスピン反転により放出されるものである。ということは、水素原子単体では放出することができない。これはある程度の密度と衝突頻度を持つガス星雲を構成する水素原子が放出しているのである。実はガス星雲にも属さないはぐれ水素原子が結構残っており、それが単独で銀河系を公転しているのではないか。それも円盤面上だけではなく、バルジの外側から球対称に分布しているのではないか。ごくまれにしかないとしても、分布の体積が膨大であるため総質量では無視できないことになる。
 
 以上3回にわたって、銀河系形成に関する謎に対して一般的になされるのとはやや異なる説を展開してきた。現在の宇宙論すべての土台と言ってもよい一般相対性理論に基づきながら、その分野における通説・ドグマではない仮説をこれだけ立てることができるのである。宇宙論の分野はその解明を志す者にとってまだまだ未開の沃野なのだ。

銀河系の形成(2/3) ブラックホールは実在した!

 銀河系の形成にまつわるもう一つの謎は、その中心にあるという超巨大ブラックホールについてである。私たちの銀河系の中心には、私たちの太陽の400万倍の質量を持つ超巨大ブラックホールがあるという。1年ほど前に「ブラックホールの姿の直接観測に成功した」というニュースがあったことも記憶に新しいが、これは私たちの太陽の65億倍もの質量をもつとされる。宇宙広しといえどこれほど桁外れに質量の大きな天体は他に類がなく、誕生のメカニズムは大きな謎とされている。
 
 けれども実は、それ以前にブラックホール自身の誕生について謎がある。謎と言うよりも疑惑と言うべきかもしれない。こんにち、標準的なブラックホール超新星爆発に際して生じる重力崩壊により生み出されるとされている。けれどもこの重力崩壊という現象が物理的には生じえない、これが一つ目の疑惑である。これは1930年代にチャンドラセカールが提唱した理論に基づくアイデアであり、ある質量よりも大きな白色矮星超新星爆発を起こした際に生じるとされている。しかし、詳細は別記事に譲らせていただくが、この理論は白色矮星によるIa型超新星爆発のメカニズムを説明するものではあっても、それが同時に重力崩壊を引き起こすとするのには無理な論理の飛躍がある。爆発が中性子星くらいを生み出す可能性はあるとしても、それがブラックホールになることはない。
 
 疑惑の二つ目は、ブラックホールそのものの理論の中にある。ブラックホールという概念は100年以上前にアインシュタインが提唱した一般相対性理論に基づくものである。一般相対性理論の中に誤りがあるというのではないが、その中にはいまだ広く知られていない側面がある。その点を追求すると、ブラックホールという存在のあり得なさが明らかとなる。この点についても詳細は別記事に譲らせていただくが、それは重力が原則引力相互作用であり、ゆえにそのポテンシャル・エネルギーは負の値をとることに由来する。(これは一般相対性理論ではなく特殊相対性理論の帰結であるが)エネルギーと質量は等価であるため、負のエネルギーをとる重力ポテンシャル・エネルギーは重力場中の物体の質量を軽減させることになる。ではどれくらいの質量を軽減させることになるかというと、ブラックホールを議論する際に用いられるシュバルツシルト計量で計算して事象の地平線で質量がちょうどゼロになってしまうのである。ということは、ブラックホールがいくら物体を飲み込んだとしても自身の質量が増えることはなく、肥え太ることができない。
 
 ブラックホールの正体である事象の地平線はいわば一般相対性理論における不備であり、そう簡単に実現されるものではない。宇宙はこの不備をうまく回避しており、ブラックホールなどというものは実際には存在していないのではないか。こんにちブラックホールとされている天体は、X線など通常の天体では放射できない高エネルギーを恒常的に放出していることによってそう判断されている。けれどもそれは事象の地平線を伴わなくても高密度・大質量でさえあれば可能なことであり、それらも実際にはブラックホールではないのではないか、と考えていた。ところが、今から1年ほど前、冒頭に記したようなニュースが飛び込んできたのである。その詳細は下記URL:国立天文台のHP等を参照していただきたい。
https://www.nao.ac.jp/news/science/2019/20190410-eht.html
> 2019年4月10日、研究チームは世界6か所で同時に行われた記者会見において、
> 巨大ブラックホールとその影の存在を初めて画像で直接証明することに
> 成功したことを発表しました。
 
 ブラックホールが実在するというのであれば、それを示す確実な証拠はその姿を直接観測する以外にない。そう考えていたので、このニュースを聞いたときは驚いた。と同時に、私なりの理論に基づいてもう一度ブラックホールが生じる可能性を考え直さなければならないと感じた。この点、そう悲観するものでもない。こんにち超巨大ブラックホールの形成メカニズムを説明できる理論はなく、私(;専門家ではありません)も他の専門家も立ち位置的にはそれほど違わないのだから。いや、上記の知見を得ている私はこの分野の専門家たちよりもむしろ優位にあるとさえいえるかもしれない。
 
 糸口は、クェーサーと呼ばれる天体である。私たちの近くにはなく、ゆえに宇宙論的にははるか昔、ビッグバンから間もない時期にのみ存在したと考えられている。それは桁外れに大きなエネルギーを放出しており、銀河系並みの質量をもっていたとされている。そして当然の帰結として、それは私たちの知る銀河系の初期の姿であり、銀河系の中心にあるとされる超巨大ブラックホールと関係があると考えられている。けれども遠くにしか見つからないため、それがどのようなものなのかを観測によって知ることは困難である。
 
 前回の記事に書いたように、ビッグバンの直後には均一であった質量分布がその後の宇宙の拡大によって粗密分布を作り出し、ついには銀河系となる質量の束縛状態が実現する。とすると、この質量の束縛状態が銀河系を形成する過程がクェーサーだということになる。銀河系のスケールの粗密構造が形成される頃、それよりも小さなスケールでは多くの粒子が緩く集散するガス星雲となっているはずである。それらが大規模粗密構造の重力に引っ張られて徐々に中心に終結していくとき、果たしてそれは超巨大ブラックホールを作り出すのであろうか。
 
 状況を単純化して考えよう。球殻構造の質量分布のみを考え、それが少しずつ縮んでゆく、すなわち球の半径が減少していく状況を考える。よく知られているように、球殻の外側には球の中心に質量が集中するのと同じ重力ポテンシャルを、球殻の内側には一様な重力ポテンシャルを作る。球の半径が減少してもこの点は変わらないが、球殻表面の重力ポテンシャルは半径の減少に伴い深くなっていく。そして球の半径が事象の地平線に達すると、この球殻はブラックホールになる、のではなく、重力井戸を落ちることで得たエネルギーを輻射で外部に放出し、質量を失ってしまうだろう。
 
 では、この球殻構造の内部に小さな物体があるとどうなるだろう? 球殻内部の重力ポテンシャル・エネルギーもその表面同様に深く落ち込むはずだが、内部の物体はそれで何らのエネルギーも得ない。速度が増すわけでも、温度が上昇するわけでもない。そもそも球殻内部の重力ポテンシャルが一様ということは、その内側にある質量は球殻から何らの影響も受けないということである。逆に内部の物体もわずかながら重力ポテンシャルを形成し、それが球殻に重力として作用することはある。しかしその影響は球殻側が請け負い、球殻側がエネルギーを受け取るのみである。そう考えると、内部の物体は質量を維持したまま重力井戸を下ることになる。
 
 事象の地平線とはある深さに達した重力井戸のことであり、この手法によれば質量を持つ物体を事象の地平線の内側に落とすことが可能となる。いや、球殻構造の質量の喪失を気にしなくてもよいのだろうか。それは球殻の外側にさらに球殻があればよい。仮想的な球殻が連続的に連なり、それらが徐々に半径を減少させて落ち込んでゆけば、その内側に位置するどれだけかの球殻がある程度の質量を維持したまま事象の地平線の内側に落ち込むこととなり、ブラックホールが形成される。そしてこの状況は、理論的に予想されるクェーサーの在り方とよく一致する。
 
 「内部の物体は質量を維持したまま重力井戸を下る」と書いたが、実際にはその物体も内部に別の物体を閉じ込める球殻なのである。事象の地平線に飲み込まれるまでにはある程度の質量に相当するエネルギーを熱に変換し、外部に放出するだろう。それだけでもとてつもない量のエネルギーであり、クェーサーという異常な天体の特性をうまく説明する。また、その中心部には外部から観測される質量に相当する以上の物質が飲み込まれていることも示唆される。私たちの銀河系の中心にある超巨大ブラックホールの質量は私たちの太陽の400万倍とのことだが、元はその2倍、3倍、あるいはもっと多くの質量だったのだろう。
 
 ところで、クェーサーが超巨大ブラックホールを生み出すのに際して、超新星爆発や重力崩壊のようなイベントは生じないのだろうか。結論から書けば、そのような華々しいイベントは何もないままに発生したブラックホールが粛々と成長していく形になるだろう。超新星爆発や重力崩壊といったイベントは、通常ではありえないような超高密度状態を実現させるのに必要となるものである。というのも、従来想定されていたブラックホールは大質量・超高密度でなければならないからである。けれども超巨大ブラックホールの場合、密度はそれほど高くなくてよいのである。ブラックホールの正体は事象の地平線であり、その大きさは井戸に見立てられる重力ポテンシャルが一定の深さに達する位置として決まる。そしてそれは、基本的には質量の大きさに比例する。しかし空間は3次元の広がりを持つため、例えば100倍重く100倍大きなブラックホールの体積は100万倍となり、逆に密度は1万分の1しかない計算となる。
 
 こんにちの宇宙物理学の専門家は、小規模なブラックホールが衝突・合体を繰り返して最終的に超巨大ブラックホールに成長したという仮説が正しそうだと主張している。けれども実際の宇宙で天体同士の衝突・合体がいかに起こりづらいかを考えれば、何のイベントも起こらずただ宇宙における物質の粗密が明確化する過程で自然に超巨大ブラックホールが形成されたと考えるほうがよほど自然ではないだろうか。
 
 とはいえ、ブラックホールの大きさは銀河規模の質量分布と比べればごく小さく、その中に少なくて太陽の数百万倍という質量が押し込められるのだから、「何も起こらない」という表現は適切でないかもしれない。クェーサーの心臓として恒常的に激しい活動を継続しつつ、しかしそれとは関係なくブラックホールが生まれてゆっくり成長していく。これが私の考える超巨大ブラックホール誕生の描像である。
 
 こうして、宇宙に自発的に生じた物質の粗密が銀河系の素となるクェーサーと超巨大ブラックホールを生み出す過程を説明した。けれどもそれがおなじみの円盤形状を形成するためには、もう一工夫が必要である。それに、銀河同士を隔てる虚無の空間はなぜこれほど広いのか。次回はそのあたりの謎の解明を試みる。

銀河系の形成(1/3) 自由な宇宙に生じる束縛状態

 宇宙物理学において、銀河系形成のメカニズムは一つの大きな謎である。径方向の回転速度分布が不自然でそれを説明するためにダークマターの概念が導入されたことはよく知られているが、それ以外にも、中心部に超巨大ブラックホールが存在するとされていること、いかにして無数の星々が円盤形に分布するに至ったかを合理的に説明することは難しい。それ以前に、銀河系全体が自身の重力による束縛状態にあることがそもそも大きな謎である。それよりも大きなスケールで見ると、あるいは宇宙全体でみると、質量は自身の重力による束縛状態にあるのだろうか。いや、宇宙全体は今なお広がり続けているのだから、宇宙全体でみると質量は自由な状態でなければならないのだ。にもかかわらず局所的にはほぼすべての質量が束縛状態にあるのはなぜなのか。熱力学的に矛盾していないだろうか。これが謎の本質である。逆にこの謎を解明できれば、他の謎を解決する糸口が得られる可能性もある。
 
 銀河系の形成メカニズムを考えるにあたり、まずはビッグバン後の質量の様子から考えなければならない。ビッグバン直後の混とんとした状況には立ち入らないこととして、(明らかな)質量の大部分が陽子と電子、そしていくつかの中性子を含むヘリウム原子核からなる時点から考える。明らかでない質量としてダークマターニュートリノが存在していた可能性もあるが、とりあえずそれらについては無視をする。はじめ超高密度・超高温だったそれらの荷電粒子は、宇宙の膨張に伴い冷却されていく。ここで重要なのは、冷却は(空間の拡張による)断熱膨張によるのではなく、電磁波の輻射によるという点である。輻射により放出されるエネルギーの強度は温度の4乗に比例するのに加えて、輻射は荷電粒子同士の衝突により生じる現象であってその頻度はおおよそ粒子濃度の2乗に比例することから、超高密度・超高温だった時期に最も多くの電磁波の輻射がなされる。
 
 これらの電磁波は粒子同士の衝突の際に再吸収されることもある。けれども光子単体のエネルギーが宇宙の膨張に伴ういわゆる宇宙論赤方偏移によって低下するため、平均的にみると電磁波の再吸収により回収されるエネルギーは輻射により放出されるエネルギーよりも少ない。こうして荷電粒子は徐々に冷却されていく。実はこの点こそが一つ目の重要なポイントである。古典的な熱力学を考える限り、外界から完全に隔絶された系を冷却することはできない。エネルギー保存則を考えればこれは自明である(第1法則及び第2法則)。しかし宇宙論ではそうはならないのである。事実背景放射は放射された当初と比べて明らかに冷却されており、系全体もそれに呼応して冷却されてゆく。
 
 ところで、これと関連するもので「宇宙の晴れ上がり」という概念がある。はじめに電離していた陽子と電子がどこかの時点で再結合し、それにより電磁波の吸収率が激減して宇宙が透明になったことを表す概念である。この再結合の際に放出された電磁波が今日観測される宇宙背景放射になった、という主張をしばしば見かけるが、これは明らかな間違いである。宇宙背景放射黒体輻射に由来するスペクトルを示しており、再結合に由来する痕跡は見られない。黒体輻射は電球の光、再結合の輻射はLEDの光であり、これらのスペクトルは明らかに異なっている。このスペクトルから分かることは、宇宙背景放射は陽子と電子による再結合が始まるよりも前の時点で電離した状態の荷電粒子により輻射されたものだということである。その様な電磁波が宇宙に満ち溢れていたころ、陽子と電子が再結合してもすぐに電磁波によって再分離させられたことだろう。背景放射が宇宙論赤方偏移によって十分に低エネルギー化した後でも、荷電粒子の再結合は比較的長い時間をかけてゆっくり進行したと考えられる。
 
 透明度という観点については、荷電粒子と中性分子とでは確かに違いがある。電荷の有無にかかわらず粒子が電磁波を吸収するためには粒子同士が衝突しなければならない。この衝突とは何らかの相互作用により素粒子の世界では遠隔的に実現されるが、荷電粒子同士の衝突はクーロン相互作用によって、中性分子同士の衝突はファンデルワールス力(ハードコアによる斥力を含む)によって実現される。そしてクーロン相互作用のほうがはるかに大きな散乱断面積を持つために、中性分子同士であればニアミスで終わるような場合にも荷電粒子同士であれば衝突に発展し得る。そのため電磁波を吸収する確率は荷電粒子のほうが高い。ただしこの時期は宇宙の膨張によって粒子自体の濃度が低下し続けており、それによる空間の透明化もある。という事情まで考慮すると、荷電粒子の再結合は殊更に特別視するほどの重要な要素ではないように思われる。
 
 ここでもう一つ重要な点を確認したい。空間の膨張により光子のエネルギーは低下するのに対して、粒子のエネルギーは低下しない、ということである。光子のエネルギーは対応する電磁波の波長に反比例し、空間の膨張によってその波長が伸びるとエネルギーは低下する。ただし電磁波の連なり長さ(例えば、レーザーポインターを1秒間空に向かって光らせた時、光速×1秒分の長さのレーザーが空に向かって照射される)も空間の膨張により引き伸ばされるため、電磁波全体のエネルギーは変化しないことになる。そもそもビッグバンを含む空間の膨張は一般相対性理論におけるアインシュタイン方程式から理論的に導かれるものであり、アインシュタイン方程式が宇宙におけるエネルギー保存則を前提として導出されている以上、この現象で生じる変化は必ずエネルギーを保存しなければならない。
 
 エネルギー保存則は当然粒子にも適用され(求められ)、空間が膨張してもその運動エネルギーおよび速度は変化しない。ここで粒子とは、波動関数によって量子力学的に記述されるものという意味である。自由粒子波動関数も基本的には波であり、電磁波同様その運動エネルギーが波長に反比例する。けれども波動関数の波は電磁波とは異なり、空間の膨張に応じて伸びることはなく、その連なり長さも空間膨張の影響を受けない。電磁波は電場や磁場といった実態を持つ場の波であるのに対して、波動関数量子力学的観点からしても実態を持たないものである。量子力学的な実態は波動関数から計算される確率密度であるが、そこに波の要素は見られない。この点からしても、電磁波と波動関数とは本質的な違いを持つのである。
 
 ビッグバン後の宇宙に話を戻すと、宇宙は均質一様な背景放射と粒子で満たされた状態にある。このとき粒子はエネルギー的に束縛されていない自由粒子であり、電磁波と同じ平面波の形をした波動関数で記述される(陽子と電子が結合した水素原子であっても同様で、水素原子としての波動関数は平面波で記述される)。ここから自由粒子がいかにして束縛状態の銀河を形成するに至るかが、一つ目の大きな謎となる。
 
 当初は均質一様であった粒子濃度はしかし、徐々に空間的な粗密を生み出す。エントロピー的に高温状態は均質性を要求するが、逆に温度の低下は空間的な均質性の破れに対して寛容となる。系が経時的に冷却されてゆくのであれば、その過程で空間的な不均一構造が形成されることは理にかなっている。そして、粒子濃度が高いほど粒子同士の衝突が頻繁に起こり、電磁波の形で運動エネルギーを放出して速やかに冷却される。これが正のフィードバックとして働き、ひとたび生じた空間的な粗密は増長・拡大する方向性を持つ。こうして原始的なガス星雲が生まれる。粒子は(全体として電気的に中性であれば)電離したままでも構わないが、以下ではイメージしやすいように中性の水素原子分子のみを考えることにする。
 
 ガス星雲の構成粒子同士の相対速度はかなり低下しているものの、それらが束縛状態に陥っているとはまだ言えない。またガス星雲同士は完全に自由な状態である。けれどもガス星雲同士が衝突すると、その粒子濃度がさらに高くなってエネルギーの放出が進む。相対的な速度の小さなガス星雲同士が衝突すると一体化することもあるだろう。衝突頻度の増加はまた背景放射の吸収も増加させるが、このときすでに背景放射のエネルギーは十分に低下してしまっている。仮にこの時の宇宙のサイズが現在の1/10であったとすれば、背景放射の温度(スペクトル)は30K相当、現在の1/100のサイズだったとしても300K相当であり、それより高温のガス星雲を加熱することはない。
 
 このように、ガス星雲を構成要素とする系を考えても系全体の温度は徐々に低下してゆき、より大きなスケールの系においても系の構成要素であるガス星雲の空間的な粗密が生じる。ただしその形成にはガス星雲が形成されるよりも長い時間が必要となるだろう。このような大スケール化を繰り返せば、銀河より大きなスケールの空間的粗密が形成されるのも時間の問題に思える。しかしここに別の要素が加わってくる。スケールがある程度大きくなると重力の効果が無視できなくなり、粗密のプロファイルがよりはっきりするようになる。そして質量分布が少数のグループに集中し、それ以外の領域には真空の状態が実現される。こうなると質量分布同士の衝突がまれにしか起こらなくなり、系全体での冷却プロセスが進行しなくなる。こうして、結局のところ私たちの宇宙では、ちょうど現在の銀河と同程度の質量分布と真空領域からなる粗密構造が形成されたのだと考えられる。この質量分布は重力による束縛状態に陥っている一方、質量分布同士は自由な状態にあるという一見矛盾する状況が実現することとなる。
 
 けれども話はここでは終わらない。各々の銀河系の中心に存在するとされる超巨大ブラックホールの形成に関する謎をこれから解明していくことにする。

新型コロナウィルス感染症の謎:追記Ⅱ

 前回「追記Ⅰ」を書いてから1か月が過ぎた今、日本、特に首都圏ではすでに新型コロナウィルス感染症の封じ込めに成功したという安堵感が広がっている。5/25(月)には全国で緊急事態宣言の解除も宣言された。特に全国の日ごと新規感染者数ではこのところきれいな収束曲線に乗っている様子が見て取れるが、そこに至るまでの時期は“統計的に”きれいな挙動を示していない。これは、現象が自然なものではなくそこに人為的・作為的な効果が影響を及ぼしていることを示している。そしてこれこそが「私たちの社会が感染症の封じ込めに成功した」という証拠である。今にして思えば、前回の記事を書いた4月末から5月のGWにかけての時期こそその傾向を最も顕著に示していた時期であった。
 
 WHOを含む海外でもようやく日本の感染症封じ込め対策が成功したことを認めたようだが、それでも「対策の手ぬるい日本でなぜ成功したのかは謎」という論調とのこと。まあ仕方がない。日本の成功を手放しで認め称賛してしまっては、ロックダウンなどの厳しい対策をとってきた欧米諸国にとって自国政府の対応を無意味で逆効果だったと非難しなければならなくなる。そこまでして自国を貶める意図を欧米諸国のマスコミは持っていないのだろう。という政治的な意図を抜きにして、感染症の専門家たちはこの「日本で成功して欧米で失敗した」という事実の原因をどのように考えているのだろう。彼らもまた「謎」だと思っているのだろうか。
 
 先日、北海道大学の西浦教授に対するインタビュー記事を読んだ(5/26)。
https://news.yahoo.co.jp/articles/d7eefbac4873acdceaf18d08da4bd7b6434540aa?page=1
彼ら(記事中で引用されていた関連論文の著者を含む)も前々回記事に書いた私の謎、「人口の10%程度の感染率で収束傾向が見えてくるのはなぜか」という点を同じく謎としてとらえ、解説のような話を述べられていた。それを要約すると、「集団免疫獲得のために必要な感染率は60%」という推定は社会の構成員が均質であると仮定して得られたものであり、実際にありそうな異質性の要素を考慮すると20~40%くらいで集団免疫が機能する、ということである。「異質性の要素」とは、たとえば感染クラスターの規模の違いが指摘されていた。前々回の私の記事では「社会に10%程度いる陽キャの大半が感染したところで感染速度が鈍化する」という仮説を提示しており、これもまた社会構成員の不均一性が重要な影響を及ぼすだろうという点において彼らの主張と本質的に同じである。
 
 ところで、インタビュー記事の中で気になったことがある。この記事では「収束」と「終息」の区別が分かりづらく、混同されているように感じた。記事の後半で「日本で感染症をうまく抑え込んでしまうと、集団免疫で終息させた諸外国からの訪問者による感染拡大が今後も長く続くことになる」という指摘がなされていた。けれども集団免疫によってであれ「終息」させられればその社会に感染者はいなくなるのであり、その社会・国からの来訪者を恐れる必要はない。さらに言えば、社会構成員の不均一性により感染拡大傾向が「収束」したとしてもそれで感染症が「終息」するとは限らず、感染症との戦いは継続される。今まさに欧米諸国が置かれている状況である。当然のことながら、そのような社会からの来訪者は厳しく制限・管理されなければならない。感染の拡大傾向を収束させられれば医療分野への負荷の軽減にはなるが、その後も感染症の終息まで社会の努力と苦悩は継続される。この1か月の進展から私が新たに得た知見である。なお、「収束」と「終息」の正しい区別は、「日々の新規感染者数が減少傾向になること」が収束、「日々の新規感染者数ゼロを維持すること」が終息である(数学的にはf(x)=√xを「数値∞に収束する」と表現し、x>0の全領域で収束傾向にあるとする)。
 
 最後に、本記事冒頭で示した新たな「謎」に対する私の見解を述べておく。日本の手ぬるい対策が成功し、それよりも厳しい対策をとった欧米諸国が失敗しているのはなぜなのか。それは一つの理由で説明できるものではなく、複数の要因が存在しているだろう。よく言われるように国民の習慣の違いも影響しているだろう。それより大きな要因として、日本社会のいわゆる同調圧力が諸外国のロックダウン並み、もしくはそれ以上に強力に作用したのではないかと推測している。ロックダウンといっても社会の運営に必要な業務に従事する人々はほぼ普段通りの生活をするのだし、そうでない人々も食事や買い物等の活動のために他者と接触しなければならない。言葉の響きは違えど、実質的な違いはそれほど大きくないのだと思う。
 
 もう一つ大きいのは、初動のうまさ・まずさの違いだと思う。日本ではマスコミもネット上でも日本(政府)の初動がまずかったと主張しているが、私は必ずしもそうだとは思わない。東京で感染爆発の兆候が見られた3月下旬からの初動対策は、「重大な失点がなかった」という点においてうまいと言えるものだったと考えている。他方欧米諸国では、感染の疑いのあるものを含む大勢に対して一斉PCR検査を実施したこと、そしてそれにより検査をすり抜けた多数の感染者を生み出してしまったことが取り返しのつかない「重大な失点」となり、それ以降は厳重なロックダウンを行っても大した効果がなかった、というのが真相だと考えている。日本も同様の措置によって最初期に取り返しのつかない規模の感染者を出してしまっていれば、いくら衛生的な習慣を守っていても、いくら厳しい同調圧力が作用したとしても、欧米諸国同様の感染爆発を防ぎきることはできなかったと思う。
 
 直観的、あるいは感情的には、幅広く検査を行うことが正しいように思える(実際WHOはそういうことを言っている)。が、実際はそうではなかったということだ。今回の場合については、検査の実施に伴う弊害の側面を十分検討していなかった、もしくは目を逸らしていたことが反省点として指摘されるべきである。加えて、「検査の結果=真実」という誤った思い込みを正すことも必要だと思う。検査精度の問題だけでなく、昨日の陰性が今日の陰性を示すわけではないという恒等性の思い込みについても指摘したい。この点、量子力学を学んだ者であれば誰もが納得できる話である。本感染症についても、検査結果より確率挙動や蓋然性を重視すべきだったのだ。重要なのは陽性/陰性判定ではなく、感染者である可能性を見込んだ対応・振る舞いだったのである。
 
 量子力学には、次のような格言がある。「量子力学を理解したと思っている者は量子力学を理解していない。」人類が未経験の新しい感染症に関して物申す者は、この格言を念頭に置いて謙虚かつ慎重に論理的思考と判断を行うよう努めてもらいたい。

#有名人の政治利用を許さない

 このところ「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグがマスコミでもネットでも頻繁に取り上げられている。ことの発端は、5/8(金)に一般人がツイッターでそのような投稿をしたことに始まり、その後の一週間でそこに多くの有名人を含むのべ500万ものツイートが同調した、というものである。私はツイッターのアカウントを持っていないのでその仕組みに詳しくはないが、ハッシュタグとはつぶやき(投稿)の分類名もしくは検索用タグ(論文の「キーワード」に相当)のことで、ツイッターなどの不特定多数のユーザーによるSNSでは同調者同士で集まるための掛け声のように用いられているようだ。
 
 私自身がこの関連のニュースを初めて目にしたのは、きゃりーぱみゅぱみゅ氏(以下きゃりー某氏)がこのハッシュタグで自身の発言をツイートしたところ、賛否(;要するに叩きと擁護)の書き込みで大炎上した、というニュースだった。その後も芸能人をはじめとする有名人の多くがそれに続いてこのハッシュタグによるツイートを行い、上記のような状態に至っている。それがニュースとして地上波などのマスコミで大々的に取り上げられ、ついには実際の政治の流れにも影響したとされる(5/18)。ここで重要なのが、発言者である有名人や芸能界はもちろんのこと、マスコミのほぼすべてがこのニュースを肯定的に扱っているのに対して、ネット上では逆に大部分が否定的な感想を挙げている点であろう。
 
 議論の基礎として「検察庁法改正案」およびその抗議の内容を確認しなければならないが、調べた限りざっくりと言うと、検察庁を含む公務員全体の定年を63歳から65歳に延ばす法案の一部が「検察庁法改正案」であり、それに対して特に強く抗議している主張の多くは、「検察庁は行政の頭である政府と独立した司法の機関であり、その関連法の制定に政府が介入することは三権分立の精神に反するので反対」ということのようである。そして、それに対してネット上で見られる否定的な意見の多くが「それに対してなぜ多くの有名人がこぞって反対意見を表明するのか」である。
 
 私をはじめとする一般人の大多数がこのニュースに触れてまず抱く感想は、「この改正案と芸能人・有名人とどんな関係があるのか?」という疑問だろう。特定の業界にとって直接的に利害の生じる法案に対してその業界に属する人間が賛成・反対の声を上げるのであれば理解できる。例えば、再販制度 (再販売価格維持制度)の廃止案に新聞・出版業界と有名作家たちが大反対キャンペーンを行ったことがあったが、これに対して(賛否はともかく)違和感を抱いた一般市民はいなかっただろう。彼らにとって再販制度は利益・収入確保の上で極めて重要な法律だからである。では、今回の件でツイートによる政治発言を行った有名人たちと、検察庁職員もしくは特定個人の定年延長とどのような利害が絡むのだろうか。いろいろと調べてみたが、見えてはこなかった。
 
 直接的な利害関係が見えてこなければ、直接的に利害関係を持つ“黒幕”から指示を受けての発言ではないかと疑うのは自然である。実際には“黒幕”からの指示でなくても、友人・知人からの誘いに同調して政治的な発言をすることもあり得るだろう。特に自身と直接的な利害関係のない法案に対してであれば、軽い気持ちで賛同・同調することは大いに考えられる。事実、先述のきゃりー某氏はそれが実態だったと言明して件のツイートを削除し、この件への幕引きを図ったという。しかしそれは例外的な対応で、ほとんどの発言者は自身の発言を取り消すことなく、中には批判に対して意固地になって反論をしている人物もある。曰く、「芸能人には政治的発言の自由はないのか」「六法全書をすべて読まなければ政治的発言をしてはいけないのか」など。
 
 芸能人に政治発言の自由がないのではない。有名人には自身の知名度が政治に利用されないよう発言を管理する責任があるのだ。少しネットで検索したところ、次のような記事が見つかった。
芸能人も反対の声上げた「検察庁法改正案」って?【イチ押しニュース】
https://asahi.gakujo.ne.jp/common_sense/morning_paper/detail/id=3007
(あさがくナビ:就活ニュースペーパーby朝日新聞
 
タイトルおよび記事の冒頭部を読む限り、検察庁法改正案関連ニュースの解説のようにも読めるが、記事の中に
> 多くの人が反対しているのは「特例」の部分です。
という記述があること、そして
> ‥‥反対の多い改正案を通そうとしていることに「火事場泥棒」
> との批判が強まっています。ふだん政治に関心がない人も、
> 今後の行方に注目してください。
という形で記事が結ばれているところまで読めば、これが「検察庁法改正案に抗議します」という趣旨の主張記事であることは明らかである。タイトルに「芸能人も反対の声上げた」とあること、上記の「多くの人が反対している」「反対の多い」という記載があることは、多くの有名人のツイートがその主張の妥当性を高めるのに利用されていることを示している。これが有名人の政治利用の実例である。
 
 有名人の発言力を利用して世論を誘導・創造することはポピュリズム政治の一形態である。一見民主主義にも見えて紛らわしいが、民主主義とポピュリズムは別物である。民主主義や自由主義には個人の判断と責任が伴う。個人は社会全体を未来にわたって見通したうえで判断を下す責任を持つ。逆に、個人にはそのような判断が下せるよう正しい情報が十分に提供される必要がある。この状態が実現して初めて健全に運用されるのが民主主義であり、個人が情報から遮断されたり誤った情報が与えられ惑わされた状態で運用されるのがポピュリズム政治である。知名度を持つ有名人が直接的に関係しない政治勢力の主張を代弁すれば一般人に誤解をもたらす情報が生み出されることになり、有名人はそれに対して責任を持たなければならない。個人名や肩書を伏せて政治発言をするのは自由だとしても、それをせず社会への影響力を意図して自身の名前で政治発言を行えば、それだけですでに健全な民主主義を害する罪を犯しているのである。「六法全書を読めば許される」という話ではない。
 
 今回最も取り上げられた有名人の一人となったきゃりー某氏は、先述のように件のツイートを削除する際に謝罪も行っている。その謝罪内容は「ファンに不快な思いをさせたこと」という。上記の責任論を鑑みれば加えて「世間を騒がせたこと」について謝罪があってもよかったと思うが、そこまで問うのは少し酷かもしれない。それよりもファンが不快な思いをしたこと、それに対して自身に責任が生じることに気づいて速やかに謝罪などの適切な対応をしたところに彼女の賢明さと真摯な気持ちが見て取れる。特定の主張を売りにしていない有名人が特定の主張をすれば、それでショックを受け傷つくのはファンである。そのことに気づけない有名人が多いことを考えてほしい。加えて、件のツイートの指示を出した“黒幕”が彼女の芸能活動に不利益をもたらす可能性も考えられ、彼女の勇気ある行動に対して私は称賛と心配の想いを抱いている。
 
 もう一人、指原莉乃氏がテレビの生放送で自身にツイートの指示が来たことを告白した。彼女に対しても私は同様に称賛と心配の想いを抱いている。日本の芸能界とマスコミは腐敗しきっており、真摯な態度や公正さといったものは全く期待できない。いつの頃からか日本ではそれが当たり前になってしまっており、芸能界やマスコミが政治的に不公正で偏った発言・報道を行っても、あるいは自国である日本とその国民を不当に貶める一方で韓国などの特定の外国を不自然に称揚する発言を行っても、私はもはや何も感じなくなってしまっていた。けれども今回、少なくともネット上では芸能界やマスコミに対する不信や批判の声、怒りの声を多く見た。それらを見ているうちに、徐々に煮られるゆでガエルになっていた自分を反省しなければならないと思い、この文章を記すことにした。私は民主主義・自由主義を愛しており、明日の我が子らの日本にこの大切なものを残したい。そのためには真摯で公正なマスコミとジャーナリズムが必要不可欠である。そして誇りにできる文化の維持・創造に芸能界と芸能人が重要な役割を担っている。願わくは、この思いを人々と共有したい。そのためにこのハッシュタグを拡散させてください。
#有名人の政治利用を許さない